加藤恒忠(拓川)翁

□加藤恒忠(拓川)翁 (1859年〜1923年)

 本学園の三恩人の一人。四国屈指の漢学者・大原有恒(観山) の三男として安政6(1859)年に生まれる。正岡子規の叔父にあたる。

 明教館を卒業し司法省法学校(法学校に抗議した影響で放校処分)で学んだ後に、フランス公使館勤務にはじまり、フランス代理公使、外務大臣秘書官、外務省秘書課長、人事課長、ベルギー公使、赤十字条約改正会議全権委員等を歴任し外交官として活躍する。外交官を辞してからは、松山選出の衆議院議員を1期務めた後、貴族院の勅選議員となる。その後、シベリア派遣特命全権大使に任ぜられ再度、外交の舞台で活躍するものの体調を崩し、松山に戻り、新田長次郎(温山・三恩人の一人)翁をはじめとする地元の有力者達に懇請されて、松山市長(第5代)に就任する。

 市長に就任してから病魔により辞するまでのわずか10ヶ月間に、「松山高等商業学校(本学の前身)設立構想」を発案者・北川淳一郎氏と加藤彰廉先生(三恩人の一人)から提案を受け、設立運動の中心として活動し、温山翁に資金協力を求め、彰廉先生に校長職を依頼し、設立の手続きを終わらせて本学園創設をほぼ実現させる。

 松山高等商業学校の寄附行為 (設立の基本事項を定め財産を供出する行為)が認可されてすぐの大正12(1923)年3月26日に食道がんで亡くなる。(後に勲一等旭日大綬章を授与される。)

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