墓前の誓い

松山大学法学部教授 古屋 壮一

 この夏、羽田空港に着いた私は学生とともに、桜田門前の法務省を見学した後、地下鉄で護国寺へと移動し、うめ謙次郎けんじろう法典調査会民法起草委員の墓石の前に立った。1890(明治23)年に公布された、ボアソナードや開明的な日本人法律家によって編纂された民法典(旧民法典)は、日本の伝統や精神に反すると批判され、修正のために施行延期となった(その後施行されることなく廃止)。条約改正を急ぐ明治政府は、時の内閣総理大臣伊藤博文を総裁として法典調査会という機関を1893(明治26)年4月に設置し、旧民法典の修正作業(新民法典編纂)を急ぐことになる。この修正作業を担った3人のうちの1人が、司法省法学校を首席で卒業後、フランスやドイツへの国費留学も果たし、旧民法典を擁護していた新進気鋭の法律家であった梅謙次郎博士である(穂積ほづみ陳重のぶしげ博士[宇和島市出身]と富井とみい政章まさあきら博士も起草にあたった)。私が研究している現行民法典467条や468条の原案を作成したのが梅博士であるということもあるが、梅博士の墓参を学生とするのには他にも理由がある。

 梅博士ら3人の起草者の尽力は、1898(明治31)年716日の新民法典(現行民法典)の施行という形で結実する。梅博士はその後、法制局長官等の重責を担いつつ、法政大学の総長も務めるなど、法学教育にも心血を注いだ。激務であった梅博士の部屋のドアには、「面会日火曜日」という面会制限の貼り紙があったが、その隣に、「ただし法政大学生並びに校友会員はこの限りに非ず」という、もう1つの貼り紙があった(法政大学百年史編纂委員会編『法政大学の100年<18801980>』[法政大学、1980]35頁を参照)。梅博士は、自分のことを置いてでも、訪ねる学生に誠実に対応していた。また、学生の就職にも奔走していたと、富井博士が語っている(前掲書35頁を参照)。私は、学生と梅博士の墓前に立ち、彼らと民法学に真摯に向き合い、彼らの就職を支援することを誓う。

 梅博士には到底及ばないが、これまで培った経験から学生の就職支援を行ってきた結果、学生は、就職先を確実に決めてきた。上京時には、梅博士に就職の結果も報告してきた。

 梅博士と同じく酒が好きな私は、教え子が幸せに生きていなければ、うまい酒など飲むことができないのである。