加藤恒忠(拓川)という人

松山大学法学部准教授 今村 暢好

 加藤恒忠(拓川)という人を御存知でしょうか?

 加藤恒忠(号を拓川。以下、加藤拓川ないし拓川と称します。)は、松山大学の創設に尽力された方の1人です。ここでは、「坂の上の雲」の時代をその時代の人々と駆け抜けた加藤拓川を御紹介したいと思います。

 加藤拓川は、1859年に漢学者の三男として松山市湊町に生まれます。正岡子規の叔父にあたります。11歳で藩校・明教館に入学し、のちに日本騎兵の父といわれる秋山好古(のちに陸軍大将、北豫中学校長)と出逢います。これ以降、同い年の好古とは、終生の友となるのでした。

 拓川は、明教館を卒業後、17歳で上京し、司法省法学校に入学します。ここで、のちに首相となる原敬と出逢い、生涯の盟友となります。拓川は、原敬らとともに法学校に抗議運動を起こした結果、ともに放校処分となりますが、その後、原敬はフランス公使館の書記官となり、パリの法科大学に留学していた拓川を外交官に推薦し、拓川もフランス公使館勤務として外交官デビューするのでした。

 拓川の外交官としての人生は、ベルギー公使館を訪れたことで華々しいものとなっていきます。のちに首相となる西園寺公望との出逢いです。西園寺とは、公私にわたり親交を深め、諸外国を西園寺とともに渡って条約改正等に携わり、外交官としての道を駆け上るのでした。当時の拓川について吉田茂は「外務省においては、エポック・メーキングでありました」と評価しています。拓川は、外務省人事課長、ベルギー公使、赤十字条約改正会議全権委員などを歴任して活躍します。50歳を前に拓川は外交官を1度退きますが、すぐさま松山市から衆議院議員となり、続いて貴族院の勅選議員となります。そして、原敬が首相となると、拓川を特命全権大使に任じて外交官として復帰させるのでした。

 原敬が暗殺される頃、拓川は喉を患い始め、外交官を引退します。すると、秋山好古や新田長次郎などから松山市長就任を懇請され、第5代の松山市長に就任します。

 病魔により市長を辞するまでの10ヶ月の在任期間に、拓川は、松山高等商業学校(松山大学の前身)設立の提案を受け、新田長次郎から巨額の出資をとりつけ、校長職の人選を行うなど政治手腕を発揮し、開学の手続きをほぼ終えたのです。拓川は、講義開始まであと1ヶ月という学園誕生直前に永逝されました。

 (詳細は「加藤拓川翁 略年譜」を参照)