「息子のために“いざ鎌倉”へ」 ~阿仏あぶつの訴訟と鎌倉幕府~

松山大学法学部教授 遠藤 真治

 今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、舞台が鎌倉時代とあって、中世絵巻に関心を持つ者として興味深く拝見している。やや唐突なフィクション(上総氏を首領とする御家人の謀叛計画など)を、見る人が史実だと誤解しないかと余計な心配も頭をよぎるが、あくまで「ドラマ・・・」なのだと割り切って楽しみたい。(新垣結衣さん演じる「八重」が、実在の人物か否かについても賛否あるが・・・)

 さて、同じ鎌倉時代の歌人で、「十六夜いざよい日記」の作者として知られる「阿仏あぶつ」に話を移そう。同日記は、弘安2(1279)年十月十六・・日、いざよう・・・・月にさそわれ京都から鎌倉を旅した彼女の体験から生まれる。60歳前後の、当時としては高齢の彼女が危険な旅に出立した背景には、実子と先妻の子の間での相続争いがあった。争いの経緯について少々説明する。生前、夫(藤原為家ためいえ)は既に先妻の子に播磨国細川荘(現兵庫県三木市)を相続させていた。ところが、夫は亡くなる少し前に先の相続を覆し、阿仏尼(後妻)の実子に相続変更する旨の遺言を書き残す。

 当時の幕府法である「御成敗式目」には、こうした相続変更を「かえし」(20条・26条)として容認している(公家法には規定が無いが、近年、平安後期以降の公家社会における「悔い返し」事例が幾つも報告されている)。この「ちゃぶ台返し」のような遺言の背景には、おそらく何らかの形で阿仏尼の意向が働いていたものと推測されるが、実子側としては既に得ていた相続権を手放すわけにはいかない。一方の阿仏尼側も再三譲渡を迫るも、実子側に拒絶される。彼女は朝廷に採決を求めるも埒があかず、やがて幕府に直接訴える決意で鎌倉へ出立するのである。

 この「悔い返し」が何故、当時の社会通念として認められたのだろうか。当時の事例には、例えば老後の世話を約束して相続させたのに、その約束が反故にされ親子関係が破綻したケースなどがある。今風に言えば、期待した子が思いもよらぬ「ドラ息子」化した場合に「悔い返し」が行われると云うわけだ。また、実子が生まれず養子に相続させたが、後に実子が生まれ相続を変更するといった「悔い返し」も見られる。武家社会に目を移すと、相続者がしかるべき器量の持ち主でなかった場合、その所領や家の存続が危ぶまれるなど、様々な理由が考えられる。ともあれ、阿仏尼の訴えた「悔い返し」が、当時の司法関係者からどのように見られたのか、興味深い。

 ところで、阿仏尼は公家間の相続問題を、なぜ武家の幕府側に訴えたのだろうか。おそらくその背景には、鎌倉政権が「鎌倉殿の13人」らのお陰?で勢力を伸張しつつあったこと、幕府法が式目で「悔い返し」を認めていたことなどから、幕府に訴える方がより得策と考えたのではないだろうか。

 阿仏尼の鎌倉滞在も4年が経過、その間2度目の蒙古襲来が起こり世情騒然とするなか、幕府から色よい判決を得ないまま彼女は亡くなってしまう。なお、訴訟の顛末としては後に阿仏尼の実子側が勝利、彼女は草葉の陰でさぞ喜んだことだろう。

 いつの時代も資産家の皆さんの相続問題は、実にややこしい。

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