松山大学法学部教授 銭 偉栄(せん よしはる)
「考えること」の大切さは,洋の東西を問わず,古くから語り継がれてきました。
「我思う故に我在り(私は考える。ゆえに私は存在する)」。近世哲学の父と呼ばれるデカルト(1596~1650)はそう述べて,自己の存在を証明する根拠として「考えること」を提示しました。「人間は考える葦である」という有名な言葉を残したパスカル(1623~1662)は「人間の尊厳のすべては考えのなかにある」と述べ,人間の本質を「考えること」にあると捉えています。
一方で,「学ぶこと」と「考えること」の両方を実践することの重要性を説いてくれるのが,『論語』為政篇にある孔子の言葉,「学びて思わざれば則ち罔(くら)し,思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし」です。この言葉を次のように敷衍してみましょう。つまり,ただ他人から学んだり,他人の意見を聞いたりするだけで,それについて深く考えなければ,まるで暗闇に迷い込んだかのように,目の前に多くの選択肢があるにもかかわらず,それらに気づけず,あるいはそれらの取捨選択に迷ってしまう,いわゆる「罔し」の状態に陥るのです。反対に,他人から学ぶことを怠り,他人の意見に耳を傾けずに独りよがりに考え込んでしまうと,そもそも考えるための材料が不足し,視野が狭くなります。その結果,独断や偏見に基づいた選択や決定を行う危険,つまり「殆うし」の状態に陥るのです。
私たちは日常生活の中で,ほぼ毎日何かを選択し,決定しなければなりません。「考える力」を欠いた状態では,他人の影響を受けやすくなり,他人の意見,場合によってはフェイクニュースに流されてしまう可能性が高まります。一方で,思考を停止したり,考えることを放棄したりすることは,選択や決定を他者に委ねることを意味します。上記の状態で行われた選択や決定はいずれも真の自由意思に基づいたものとはいえません。
現代社会では,インターネットやSNSの普及により「情報」が氾濫し,ディープフェイクの登場によって情報の真偽を見極めることがますます難しくなっています。このような状況では,真偽不明の情報に惑わされ,誤った選択や決定をしてしまうことがあります。場合によっては,それが取り返しのつかない事態を引き起こすことさえあります。このようなリスクを回避するためには,情報の真偽を見極めることができるだけの「考える力」を身につけることが不可欠です。大学は単に知識を得るための学びの場であるだけでなく,そうした「考える力」を育み,「考えること」を習慣化するための場でもあります。大学で養われる論理的思考力(ロジカルシンキング)や批判的思考力(クリティカルシンキング)は,私生活や社会生活における個人の選択や決定をより健全なものにすると同時に,少子化をはじめとする現代社会の諸課題を解決するための重要な鍵となるでしょう。
〔写真①〕大内兵衛元法政大学総長の筆による。かつて法政大学旧55年館511教室前のホールに掲げられていた。現在は大内山校舎内で展示されている。
〔写真②〕ロダン「考える人(拡大作)」(国立西洋美術館蔵)
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