松山大学法学部教授 銭 偉栄(セン ヨシハル)
学期末の成績発表後、学生から「成績評価に対する確認申立書」を提出されることは、しばしばあります。私の場合も例外ではありません。もっとも、その内容の多くは「自分はこうこうと答えたので、不合格には納得できない」という趣旨のものです。そのたびに、これまでに実施したテストにおける当該学生のすべての答案を精査したうえで、できる限り丁寧に回答するよう努めています。結果としては、「評価の変更なし」とするケースが大半です。
ところが最近、これまでとは趣の異なる申立書を受け取りました。その中に、教育者としての姿勢を省みる契機となる一文がありましたので、ここでご紹介したいと思います。
「大学が定める評価基準(評価基準は各担当教員が定める―筆者)の適正な運用は、学生の学習意欲や教育の信頼性に直結する重要な事項であると考えます」
まったくもって同感です。
人間社会は、互いに他人への信頼心をもって成り立っています。たとえば、車が安心して速いスピードで走行できるのも、周囲の車が交通ルールを守って走行するという信頼があるからにほかなりません。
大学教育においても同様です。学生と教職員ひいては大学との間、教職員と大学、さらには大学と社会との間に、相互の信頼関係がなければ、良好な関係を築くことはできません。場合によっては、これまで築き上げてきた良好な関係を一瞬にして壊してしまうこともあります。
信頼を勝ち取るには多くの時間と労力を要しますが、それを失うのは一瞬です。そして、一旦失った信頼を回復するのは非常に困難であり、状況によっては不可能な場合もあります。ナポレオンは「予の辞書に不可能という文字はない」と言いましたが、それはあくまで彼個人の強い意志を示した言葉にすぎません。その強い意志をも打ち砕いたのが、有名な「ワーテルローの戦い」でした。
ところで、私自身、これまで常に「正義・公正・公平」を心に掲げ、教壇に立ち、学生と真摯に向き合ってきたつもりです。学生の上記一文を読み、あらためて教育者としての基本姿勢を再確認することができました。
孔子の言葉に「三人行けば必ず我が師あり」(注)というものがあります。この意味においては、上記学生もまた、私にとっての「師」であると言えるでしょう。
(注)「行」は、行なうと読むものと、道を行くと見る説がある。