松山大学法学部教授 銭 偉栄(セン ヨシハル)
最近、ドイツの法学者イェーリングの著書『権利のための闘争』(村上淳一訳)を読み返した。その中で、イェーリングは、「権利のための闘争」の意義について、次のように力説している。
「人格そのものに挑戦する無礼な不法、権利を無視し人格を侮蔑するような しかたでの権利侵害に対して抵抗することは、義務である。それは、まず、権利者の自分自身に対する義務である、――それは自己を倫理的存在として保存せよという命令に従うことにほかならないから。それは、また、国家共同体に対する義務である、――それは法が実現されるために必要なのだから」
もっとも、イェーリングは、決して「どんな争いにおいても権利のための闘争を行なえ」と要請しているわけではない。彼が闘争に立ち上がることを求めているのは、「権利に対する攻撃が人格の蔑視を含む場合」である。それ以外の場合については、「譲歩と宥和(ゆうわ)の気持、寛大さと穏やかさ、和解とか権利主張の断念とかいったこと」にも十分な意義があることを認めている。この点は、現代社会における紛争解決を考えるうえでも示唆に富んでいる。
私たちは社会の中で生きている以上、他者との関わりを避けることはできない。そして、人と人が関わるところには、程度の差こそあれ、意見の食い違いや利害の対立が生じることがある。それが時としてトラブルないし紛争へと発展する可能性もある。
『韓非子』喩老第21に由来する「千丈の堤も蟻の穴より崩れる」ということわざは、どんなに些細なことでも放置すればやがて大きな問題につながる、と私たちに教えている。だからこそ、どんな些細なことでもそれを軽んじず、トラブルの兆しをいち早く察知し、紛争を未然に防ぐことが大切なのだ。しかし、どれほど注意を払っていても、すべての紛争を未然に防ぐことはできない。そうであるならば、いったんトラブルが発生したときに、紛争当事者がそれにどのように向き合い、いかなる方法によって解決していくかという問題もまた、同様に、あるいはそれ以上に重要ではなかろうか。
紛争を解決するための制度として、国家は裁判という制度を用意している。現代の日本社会においては、「裁判を受ける権利」が日本国憲法32条によって保障されている。したがって、裁判所が法に基づいて判断を示し、国家権力によって紛争に白黒をつける、すなわち法的な決着をつけることが、法治国家において極めて重要な意味を持つことは言を俟たない。
とりわけ、自らの正当な権利を侵害され、それがイェーリングのいう「権利に対する攻撃が人格の蔑視を含む場合」に当たるのであれば、安易な妥協によってその侵害を受忍することが適切であるとは限らない。そのような場合には、裁判を通じて権利の回復を求めることが、自らの人格と尊厳を守るための重要な手段となり得る。
権利を侵害された者がその権利侵害に対して声を上げることは、単にその人自身の利益を守るだけではなく、社会において法が現実に尊重されるための重要な契機ともなる。イェーリングが「権利のための闘争」を個人自身に対する義務だとすると同時に、国家共同体に対する義務でもあるのだと論じた意味がここにあるのであろう。
法は、時として厳たるものである。しかし、それが最終的に実現しようとするものは、社会全体の「和」、「調和」である。
『論語』学而第1は、孔子の弟子・有子の言葉として、「礼之用和為貴(礼の用は和を貴しと為す)」を伝えている。この言葉は、礼の運用に当たっては、調和が大切であると解されている。一方で、『礼記』儒行第41には、「礼之以和為貴(礼はこれ和を以って貴しと為す)」が孔子の言葉として伝えられている。両者はいずれも、礼との関係において和の大切さを説いたものである。
また、「憲法十七条」第1条の冒頭にも、「以和為貴(和を以て貴しと為す)」が掲げられている。もっとも、その典拠となる論語や礼記とは異なり、憲法十七条は、礼との関係において和の大切さを説いたのではない。その続きに、隣人とのいさかいを避け、互いに心を合わせ、話し合いによって合意に達すること、そして、「和」の実現によって、いかなる事柄も成し遂げられないものはないとして、話し合いを通じた問題解決の重要性が説かれている。
紛争に白黒を明らかにすることを目標とする裁判は、紛争解決の重要な方法であるが、唯一の方法ではない。むしろ、裁判によって法的に白黒を明確にすることが、必ずしも当事者にとって最善の解決になるとは限らない。また、裁判によって法的な決着がついたとしても、それによって当事者間の感情的な対立までが解消されるわけではない。場合によっては、裁判を経ることによって、それまで修復可能性のある人間関係が決定的に損なわれることさえある。この問題は、たとえば相続関係や雇用関係、および近隣関係など、紛争が解決された後もなお、何らかの関係性を持たなければならない当事者にとって、とりわけ深刻である。
法的に「決着すること」と、紛争そのものが人間関係を含めて「解決すること」とは、必ずしも同じではないのである。だからこそ、紛争が生じたときには、直ちに相手を「敵」とみなして、相手との対話・交渉をする道を自ら断って全面的な対決に持ち込むのではなく、まずは、秩父神社の「お元気三猿(さんえん)」に見習い、「よく見て・よく聞いて・よく話す」、そして自らの主張にも行き過ぎや思い込みがないかを冷静に見つめ直し、話合い、譲歩、調整、和解によって解決する可能性を探ることにも大きな意味がある。
日本の伝統的な法意識では、「訴訟を起こすということは、相手方に対する公然たる挑戦であり、喧嘩を吹っかけること」を意味するものである。しかし、日本国憲法のもとでは、裁判に訴えることは、すべて国民に保障されている正当な権利行使の一つである(憲法32条参照)。その一方で、裁判に訴えなければならないというところまで対立を深める前に、当事者自身の対話によって解決する余地が残されているのであれば、その可能性を探ることもまた、成熟した社会における紛争解決の重要な姿ではないだろうか。
* 本稿は、2026年12月発行の松山大学論集38巻5号掲載予定の拙稿「和解のすゝめ:和を以って貴しとなす」を要約したものである。
【主な参考文献】
* 木村英一訳・注『論語〔講談社文庫〕』(講談社、1992年)
* 坂本太郎ほか校注『日本書紀(四)』(岩波書店、1996年)