ナポレオンにとってフランス民法典とは

松山大学法学部教授 銭偉栄(せん よしはる)

 世界初の近代的な民法典であるフランス民法典は、現在一般にコード・シヴィル(Code civil )と呼ばれているが、1804年成立当初、フランス人の民法典(Code civil des Français )と称されていた。3年後の1807年9月、権勢の絶頂期にあったナポレオンは「フランス皇帝・イタリア王・ライン同盟の保護者」という名で、その名称をナポレオン法典(Code Napoléon )に変更した。ナポレオンの失脚後、この名称は一度廃止されたが、第二帝政(1852~1870年)のとき、皇帝ナポレオン3世(ナポレオンの甥)によって復活された。第三共和政以降(1870年~)、コード・シヴィルがフランス民法典の名称として諸法令の中に使用されるようになり、ナポレオン法典という名称は法的に廃止されないまま使用されなくなり、今日に至った。

 ところで、ナポレオン法典という名称をめぐり、それが皇帝ナポレオンの栄光を称える単なる阿諛の産物なのか、それとも民法典へのナポレオンの貢献度に相応しいものなのかが、古くから争われてきた。日本でも同様に評価が分かれているが、「ナポレオンの民法典に対する寄与は単なる名目上のものではなく、ナポレオン法典の名称は必ずしも虚名とはいえない」という野田良之の評価は首肯できよう。その理由として、とりあえず次の2点を挙げておこう。第1に、フランス革命(1789年)直後にフランス王国全体を対象とした統一的な民法典を作ることが目標として掲げられた時から、ブリュメール18日のクーデタ(1800年)でナポレオンがフランス政府の実権を握るまでの10年間、民法典の制定が4度も立ち消えになった。しかし、ナポレオンによる起草者の任命からわずか4か月あまりで民法典草案が仕上がり、わずか3年余りでフランス民法典が成立した。その間、法案の審議を妨害する勢力の排除、立法手続の改善、審議の迅速化の促進など、ナポレオンは、余すことなくその指導力を発揮した。第2に、確かにナポレオンは法律の専門家ではない。しかしそれは、ナポレオンに法的素養がまったくないことを意味するものではない。コンセイユ・デタ(国務院)で民法典草案を審議するための会議が計102回開催されたが、ナポレオンは、将軍として、政治家として多忙を極めたにもかかわらず、そのうちの59回の会議に出席し、自らその議長を務めた。のみならず、議論にも積極的に加わり、フランス民法典起草委員であるポルタリスやトロンシェの権威に屈することなく、自分の疑問や考えをぶつけ、法案の内容に自分の考えを反映させることができた。

 ナポレオンにとって、フランス民法典は、「偉大な将軍、偉大な政治家、偉大な立法者であることを一度に示した」憧れのアレクサンドロス大王と肩を並べ、アレクサンドロス大王を超えるという夢を叶えさせてくれた格別な存在だ。1815年6月のワーテルローの戦いで敗れたナポレオンは同年10月17日、その身柄の扱いを一任されたイギリスによって、南大西洋に浮かぶ絶海の孤島、セントヘレナ島へ流謫され、1821年5月5日にその地で生涯を閉じた。セントヘレナ島上陸の翌年9月26日、ナポレオンはその人生を次のように振り返った。

 「私の栄光は、40回の戦いに勝ったことに由来するもの」ではない。・・・「ワーテルローは数々の戦勝に関する記憶を消し去るであろう。・・・しかし、何ものも消し去ることのできないもの、永遠に生き続けるであろうもの、それは私の民法典であり、私のコンセイユ・デタの議事録」である。

 その行間からにじみ出てくるものは、ナポレオンのフランス民法典に対する特別な愛着だ。

 参考文献
 Theewen, Eckhard Maria, Napoléons Anteil am Code civil, Berlin 1991
 拙著「ナポレオンとフランス民法典」法学志林第121巻第1号(2023年10月)151-188頁

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