『松山大学の歩み』開講の趣旨

松山大学法学部松大GP推進委員会 妹尾克敏委員長

はじめに

 1923(大正12)年に創設された松山高等商業学校を母体とする本学において、これまで必ずしも継続的に行われては来なかった憾みの残る「自校史教育」について、法学部開設25周年を迎えることとなる2013(平成25)年を機に、あらためて試みようとしたのがこの『松山大学の歩み』という講義科目開設の直接の動機である。

 具体的には、本学関係者から折に触れて学生はもとより、学外者等に対してもしばしば紹介され続けている「校訓 三実(主義)」というものが必ずしも十分に認識されているとは言えないのではないかという現実に直面した法学部が、当時学部横断的に募集されていた「松大GP 」に応募し、最長3年間に及び、年間1,000万円(合計3,000万円)という然るべき制度資金を獲得したうえで、国内外の関係者ないし関係機関への訪問調査等を通じてこの「校訓 三実」の再検証を行おうとしたものである。このことは、松山大学の、少なくとも法学部の学生には、「松山大学の学生であることの誇り」を持たせ、学生個々人に対して主体性の涵養と自己研鑽を促すものであり、「校訓 三実」を揺るぎない本学の教育理念として再定位することにつながるものと考えたからである。これまでにも、ともすれば、「校訓 三実」という言葉だけが入学式や卒業式などの儀式の際に(学長の「式辞」の中においても)言わば、お題目だけが声高に繰り返されるのみで、その内実について入学生や卒業生に正確に伝わっていたとは到底考えられないところであった。然るに、その成果を確認しようとして、2012年度に『松山大学の歩み』(2単位)という新たな科目を1年次生以上が履修可能な後期科目として新設し、校訓三実の内容を記せというミニテストを実施したところ、多くの学生が入学式の式辞で耳にしていることは明らかであるにも拘らず、「不正解」に終わっている事実からも容易に判断し得るところとなっている。この科目の履修者数はいわゆる多人数科目の一つとして銘記されるほど多く、他学部にも開放しているためとはいえ、300人超、400人超の講義はそれなりのエネルギーを費やすことを余儀なくされてきたところである。そのうえ、費やしたエネルギーに反比例するような校訓三実の理解度の低さに直面したとき、私立学校の生命線とも言うべき「建学の精神」が蔑ろにされているという危機感を覚え、早急な対策が是非とも求められていることを痛感したのである。

 私立学校の源流は、本来、尾形洪庵の適塾や吉田松陰の松下村塾等に代表される「私塾」にあり、私塾こそは創設者の強烈な信念や高い志そのものといえよう。然るに、我が松山大学の前身が前述の松山高等商業学校であることはもとより、松山経済専門学校や松山商科大学であるという歴史的事実さえ、在学生の多くは知り得ていないままなのである。ましてや、新田(にった)長次郎(ちょうじろう)(※①温山(おんざん))という人物が、松山高商の設置に必要な経費の全額を寄附してくれたことは僅かに知っていたとしても、その寄附を依頼した人物が同時に初代校長に加藤(かとう)彰廉(あきかど)を迎えることに尽力したことはもとより、その人物の名前など知る由もないところであった。そこで、法学部が企図したのは新田長次郎と加藤彰廉の二人を実質的に繋ぐ役目を果たした加藤(かとう)恒忠(つねただ)(※②拓川(たくせん))という、第5代松山市長を務めた人物を中心とする我が大学の『三恩人』とその周縁を再検証することであった。

 特に、加藤拓川は、漢学者の家に生まれながら、司法省法学校(※③後の旧制東京大学法学部)に進み、法律家としての人生を設計しながら洋々たる人生を歩まんとした人物であったが、在学中の『賄征伐事件』と呼ばれる校内紛争の末に、「放校処分」を受け、志半ばにして方向転換を余儀なくされた人物である。しかしながら、その後の拓川は、一躍、外交官として生きる途を見出し、フランスの首都パリの日本公使館において新田温山と面識を得ることとなり、爾来、終生変わらぬ緊密な人間関係を維持し続けたのであった。

 そして、松山大学法学部としては、前述の自校史教育の一環として「法律家」たらんとした加藤拓川の人となりを含めて再検証しようとしたわけである。それというのも、ともすれば新田温山の煌びやかな功績の影でこれまではさほど評価されてこなかったのではないかとも思われる拓川の歩んできた道をできる限り正確に再検証する必要があると考え、在外公使として赴任していたドイツ(ベルリン)やベルギー(ブリュッセル)等にもGP調査に赴く計画の下で、粛々と検証作業に当たってきたところである。そのような経緯の中において、拓川の直系の孫にあたる正岡明氏の個人所蔵の資料等についても実物に直接手で触れ、目で確認するという僥倖にも等しい幸運にも恵まれたのであるが、今後、本学が百周年事業等を企画し実行していく際には、これら、いわば手つかずの「原資料」を貴重な「宝」とすることができるような全学的な取り組みと先達の功績に報いるための「受け入れ態勢」こそが求められているものと考えられるところである。そのうえ、『三恩人』という以上は、温山一人に焦点を当てるだけに留まらず、拓川自身が食道癌に侵されて、余命幾許もなかろうという病躯を押してなお、温山と彰廉とを結びつける「紐帯」として尽力した歴史的事実をこれまで以上に詳細かつ精密に書き綴っておき、永く記憶に残しておくべき必要性を本学構成員はもとより、温山会会員とともに共有しておくべきであろうという心境に至ったのである。

 願わくは、「学校法人松山大学寄附行為」の「この法人の設立者又はその縁故者1人」(第6条の(理事の選任)条項の第6号)の候補者として、これまでは温山所縁の新田家からのみ理事としてお迎えしていたところ、百周年が具体的な日程となりつつある現時点において、新たに、拓川所縁の正岡家からも、彰廉所縁の加藤家からも理事その他の役員として処遇することを視野に入れることなども充分考慮に値するのではないかと考えられるところである。さらには、それに加えて少なくとも法学部の卒業生だけでも『拓川会』という学部単位の同窓会組織を大学全体の温山会と併存させることも意味のあることではないかと考えた次第である。

 いずれにしても、いまや国立大学法人や公立大学法人に至るまでの多くの大学が『自校史教育』を自らのカリキュラムに内実化させている現実を目の当たりにするとき、永らく四国という四方を海に隔てられた、いわば特殊な閉鎖的社会において、「私学独占」状態に甘んじてきた本学が、東京六大学に象徴されるような大学が多数立地する東京や「関関同立」に代表される京都、大阪などの大都市に立地する、いわゆるブランド私立大学に伍して、高等教育機関としての社会的任務を果たし続けていくためには、創立関係者の熱い思いを今日的な形で継承し続けていく必要があるのである。この講義科目『松山大学の歩み』がその起爆剤となることを企図しながら導入教育の一環と位置づけたうえで制度化したものなのである。

※①新田(にった)長次郎(ちょうじろう)という人物は、現在の松山市山西(旧 泉郡西村)の生まれであったところから、温山と号した、と言われている。
※②加藤恒忠という人物は、漢学者の大原観山の子供であり、かの正岡子規の叔父にあたり、長じて故郷松山に流れる「石手川」を愛し、「手偏に石の『拓』と川とを組み合わせて、拓川と号した、と言われている。
※③1871(明治4)年9月に当時の司法省(現在の法務省)が設置し管轄した司法官養成のための教育機関(当時の名称は「司法省明法寮」)であり、1875(明治8)年の司法省所管の法学校となり、1884(明治17)年12月には文部省に移管され、『東京法学校』となり、翌1885年9月には旧制東京大学法学部(仏法科)に統合されたものである。したがって、中途退学者を除き、1888(明治21)年以降は、『帝国大学法科大学仏法科』を卒業しており(第三期生36名、第四期生36名)(因みに、第一期生は20名、第二期生は37名であった。)、もっぱらフランス語とフランス法の研究教育を目的として創設されたもので、授業料無料をはじめ、衣食住のほか、「小遣い」までもが支給される完全な官費による法律専門家の養成機関であった。第二期生からは予科4年及び本科4年の合計8年制となったが、拓川は、この学校の第二期生として入学したものの、本文に記述したとおり、薩摩藩出身の校長によって、原敬や国分青崖らとともに中退せざるを得なかったのである。