松山大学法学部の産声(うぶごえ)(1) ~(3)

松山大学法学部教授 妹尾克敏

 『松山大学の歩み』(後期2単位)とともに、2011年度からは通年4単位の『法政特別講義 自治体首長リレー講座』という科目も同時に新設し、すでに5年を経て、6年目に入ったところである。2012年度及び2013年度の2年間にわたる講義内容については、すでに(株)ぎょうせいから辛うじて公刊しているところであるが、この書籍の上梓については、同社四国支社の支社長以下関係者の多くが本学若しくは本学の前身である松山商科大学の卒業生であったために、極めてタイトなスケジュールにも拘らず、実現したのも本学を支える人間山脈の賜物であると言って差し支えなかろう。

 『松山大学の歩み』は、このリレー講座などとも実質的には連動させながら、以上のような開講目的に沿って法学部所属の、専任かつ常勤の複数の教員によって担当されるものであり、最終的な評価は、これら担当教員のそれぞれの個別評価をもとにして総合的に下すというシステムを採用し、学生間の評判は単位を取得し易い科目のうちのひとつとして歓迎されているようである。

 私自身は、担当科目が通年4単位の『地方自治法』であったところから、「教員配置計画」によって法学部の開設三年目となる1990(平成2)年4月1日に講師として就任したところであったが、同年6月末に文部省に対して変更申請され、10月1日には助教授に任ぜられたのである。なお、松山大学法学部開設に際して当時の文部省(大学設置審議会)が提示した条件は、「設置基準」上は法学部専門科目担当の専任教員は14名と明記されていたところ、2名の増員を求められ合計16名の専門科目担当専任教員の陣容で出帆した本学法学部の「うぶ声」とでもいうべきことがらを昭和60年以降の設置審への申請書等を紹介しながらはじめの三回を担当してきた。

 具体的には、大正12年に誕生した松山高等商業学校の位置づけを第1回目に配置し、「東の大倉(現在の東京経済大学、西の松山」と並び称された旧制の私立高商であったことをはじめ、21世紀に入ってから昭和10年に創立された昭和高商を前身とする大阪経済大学からの要請によって、旧高商系の三大学の交流ネットワークを形成して欲しいという動きがあり、それに応えてこのネットワークを稼働させ、毎年いずれかの体育会系部活動のクラブやサークルに所属する学生諸君同士が東京や大阪に行ったり、松山に招いたり、という交流を現在も継続している事実を伝えると、300名をはるかに超える受講者の顔は一瞬輝きを増すようである。また、それを伝える中で、三恩人のなかでも拓川の役割と子規の叔父であることをはじめ、その縁戚関係をも併せて紹介するとますます興味津々の様子が見て依れるところである。

 第2回以降は、実際に「黒表紙」の松山商科大学法学部の設置認可申請書の副本の現物を講義室に持参したうえで、私自身の「教員調書」のすべてを敢えて包み隠さず紹介しながら、各教員の氏名を部分的に伏せて個人が特定できないよう配慮したうえで、一目瞭然で法学部開設スタッフが見て取れるような資料を配布しているところである。そのうえ、法学部第一期生の入試の際の偏差値は、62ポイントであり、対岸の広島修道大学などとは比較にならないほど高かったことを紹介することにしている。そして、法学部の第一期生は現在はすでに昭和44年生まれの48歳となっており、受講者の父母のなかにも法学部の卒業生が存在していることを事実として共有できることは田舎の私立大学としては大いに誇りとすべきところであるという情報を提供しながら、法学部第一期生は松山商科大学(ショウダイ)に入学して松山大学(マツダイ)を卒業した事実をあらためてアピールしているところである(それにしても、「ショウダイ」と呼ぶセンスと「マツダイ」というセンスの無さは甚だしく、商大校歌から松大校歌の変更以上に未だ地元地域社会に十分には受け容れられていない憾みが残るところである)。

 なお、三回分の評価方法は、これまでは基本的にはA4 サイズの感想文用紙に感想を書かせたうえで出席カード代わりとしていたが、昨年度(2016年度)からはそのうち1回は『チェックシート』という名前で小テストを実施しているところである。法学部の受講生はA4用紙の最後の行まで手書きで埋めることに習熟しているが、他学部(特に経済学部)の学生は往々にして最終行まで書いた感想文はむしろ少数派に留まっている。