松山大学法学部教授 遠藤 真治
猫派の人には申し訳ないが、犬の話をしようと思う。朝夕に限らず犬を連れて散歩する風景が見られる昨今、立派なペット葬場も誕生し家族の一員として犬・猫等を丁重に荼毘に付す時代を迎えている。そういえば昔、千葉県の加曽利貝塚を訪ねたとき、縄文人が犬を丁寧に埋葬した痕跡を見て感動したことを思いだした。
室町時代に近江国今堀(現:滋賀県東近江市今堀町)の村民らが定めた惣掟(村掟)に、「犬かうへからす(飼うべからず)事」との一文がある。中世後期、畿内の先進地域では惣掟が定められたが、今堀郷ではなぜ犬を飼うことを禁じたのだろうか。これまで、「田畑を荒らす」「狂犬病の流行」(この時期の狂犬病を疑問視する説あり)、「えさ代の浪費」、「賭博(闘犬)流行の抑制」など諸説あり、どれも興味深いが定説には至っていない。
ところで、私が日ごろ鑑賞している絵巻物には犬が随所に描かれており、人間と犬との関係を示唆する場面が散見される。そこで、試みに絵巻物に注目して「犬かうべからず」の要因を探る手がかりをいくつか紹介したい。
まずは「春日権現験記絵(巻八)」の、都で疫病が大流行し多くの人が亡くなる場面。土間では疫病に冒された病人の嘔吐物を食する白い犬が描かれ、戸外では瀕死の病人が死を迎えようとしている。ここでは、犬が疫病の媒介者のように見てとれる。話は関連するが、京の域外には人を自然葬で葬る墓域(鳥辺野など)があったが、絵巻(「餓鬼草紙」や「九相詩絵巻」他)は、犬(烏も)がそうした場所で亡骸を食らう場面を多く描いている。現代からみると残酷だが、犬は都における「亡骸の掃除屋さん」として重要な役割を果たしていた。だが、ここでも疫病の媒介者になるうる存在であった。加えて、犬はこうした亡骸を京域内に運んでくる「厄介な運び屋さん」でもあった。藤原道長の「御堂関白記」には、御所や貴族の邸宅で(犬が運んだであろう)人の亡骸の一部が発見され、その「穢れ」におびえる様子が記されている。朝廷の年中行事の一つに、御所の軒下に巣くう野犬を追い立てる「犬狩(り)」が催されるほど、犬は御所に頻繁に出入りしていたのだ。
次に、「暮帰絵詞(巻二)」(室町初期)に登場する犬たち。村外からやって来た琵琶法師の一行に、けたたましく吠える犬の群れが描かれている。ここでは、犬が不審者に対する「番犬」の役割を果たしているが、吠える犬たちは飼い主不在の野犬の群れに見える(「春日権現験記絵」では飼い主のいる犬に首輪らしきものを描かれ、野犬と描き分けている)。現代では野犬に襲われる恐怖はまず皆無だろうが、古代~中世では繁殖力の強い犬たちは仲間を増やして野犬化し、中には人を襲う群れがいたことも容易に想像できる。なお、有名な「一遍聖絵(一遍上人絵伝)」にも随所に野犬らしき犬が描かれており、犬が私たちの想像以上に身近な存在であったことを窺わせる。
このように絵巻の中の犬たちを見ていくと、「今堀」の人たちが「犬かうべからず」とした背景の一端を、少しばかり伺うことができるのではないだろうか。
《※文中で紹介した絵巻物の各場面は「日本の絵巻」・「続日本の絵巻」(中央公論社)による》