松山大学法学部教授 今村 暢好
松山大学の敷地内には、創設に寄与した三恩人の胸像が設置されています。その中でも、新田長次郎(温山)翁と加藤恒忠(拓川)翁の胸像を制作した人物が、彫塑界を代表する武石弘三郎です。武石弘三郎作の像は、今でも日本国内各所に存在し、西園寺公望、森鴎外、澁澤栄一、土井晩翠など、数多くの偉人たちの像が彼の作品として残されています。一方で、裁判所内に設置されていたボアソナード像など、関東大震災等で焼失してしまったものも存在しているようです。
日本を代表する彫刻家となる武石弘三郎が、本学の胸像を作るに至った契機は、加藤拓川にあります。それは、武石弘三郎が留学生の頃、拓川が彼を支援をしていたからです。19世紀末においてベルギーのブリュッセルは、ヨーロッパでも個性的な芸術活動の中心地の一つでした。武石弘三郎は、ブリュセル国立美術アカデミーへ留学した際、当時のベルギー特命全権公使であった拓川に助力を得ていたのです。加藤拓川が、特命全権公使としてブリュッセルに着任した1902年7月4日(5日)、ブリュッセル南停車場に到着した拓川を出迎えた関係者の中に、武石弘三郎はおりました。公使の拓川は、留学生の武石弘三郎を大切にしたのです。武石弘三郎がアカデミーの彫刻科で最高賞を獲得した際は、公使館で祝賀のシャンペンが抜かれる祝宴が開かれ、夏休みにはミッデルゲルケにある拓川の別荘「浪の家」に武石弘三郎が二夏滞在したとされます。また、武石弘三郎が帰国後も、当時衆議院議員であった加藤拓川が、知人を通じて森鴎外への口添え依頼をしていた記録も残っています。さらには、加藤拓川の上司であった西園寺公望から拓川に宛てた手紙の中にも、武石弘三郎の名を見つけることができるのです。武石弘三郎が拓川やその家族に送った絵葉書は、合計で数十枚以上。両者が極めて親しい関係であったことが分かります。
[参考文献]
佐々木嘉朗『彫塑家・武石弘三郎ノート』(平吉平・1985年)57、69、72、82、105頁ほか。
Minako Sakakura, Through the Eyes of a Japanese Sculptor: Kozaburo Takeishi in Belgium (1902-1909),Kindle,2025.