社会と普遍性の関係

松山大学法学部教授 明照 博章

 社会を超えた普遍性はあるのだろうか?

 社会の構成原理には、地域差があるため、「社会を超える普遍性」は「存在しない」ようにも思える。
 一方で、社会は、自律的運動をしているようにみえる場面もある。その際、運動の背後には「何らかの」普遍性が存在するようにも思える。

 では、社会と普遍性はどのような関係にあるのだろうか?

 これは、人が閉鎖系システムとしての「社会」の中でしか生きられないことに関連する。
 人は、他者との関係を構築する場合、一定の条件(社会)を前提とせざるを得ない。本能的に決定されるルールでは生きられないからである。これが「人は本能から解放された生物である」ことの意味となる。それゆえ、人が安定した生活を送るには、「社会を支える普遍性」が必要になるわけである。
 言い換えると、閉鎖系システムとしての「社会」において、人は、他者との関係を構築するためにその社会に普遍的に妥当する社会的ルール(社会を支える普遍性)を形成する。すなわち、普遍的な規範を前提としない限り、他者との関係が安定しないのである。そこで、「虚構」ではあるが、人は、「社会的ルール」を構築しそのルールを支える理由も同時に考え出される。そして、その理由が「忘却」されれば、「社会的ルール」がその社会の本質となったものと評価できる。「当然」の「構成原理」となったからである。

 ただし、社会的ルールに対して違和感を持つ人もいる。本来、他者との関係性は、千差万別であるにも拘らず「社会」を維持するために「多を一にしている」からである。しかし、「多が多のまま」推移し、「正しい」(その社会に普遍的に妥当する社会的ルールに基づく)「関係性」が実現しない場合、その構成員には、大きなストレスがかかり、それ以上の弊害を甘受せざるを得なくなることもある。この弊害除去のため、人は、「正しい」社会的ルールに基づく「関係性」(社会を支える普遍性)を(再)構築しようとするのである。

 ある人が社会的ルールに従わない場合、その人は、社会的非難を受け、刑罰を科されることもある。この制裁が、社会を正常に維持させるための措置だからである。しかし、強制手段(特に刑罰)が多用される「社会」は、すでに「社会を支える普遍性」に疑念が抱かれている。それは、構成員が「社会を支える普遍性」の「虚構性」に気づき始めている兆しだからである。

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