拓川翁は、1920年1月27日に張作霖(Zhang Zuolin 1875-1928)と会見しています(別掲の略年譜を参照.)。
張作霖から寄贈された写真は、約A4サイズほどの極めて大きな厚紙製の額装入りで、その厚紙製の額の部分に、張作霖による直筆の文字が書かれています。
額縁の右側には「加藤大使閣下」と記し、その下に拓川翁に捧げたことを示す「恵存」の文字が書かれています。「大使」とは、この当時の拓川翁が、シベリア出兵問題解決のために、司法省法学校2期生の頃からの朋友である原敬総理大臣より拝命した「特命全権大使」の職位を表しております。
「恵存」の文字がその立場を示すとおり、敬語的な表記であっても、基本的には目上の者から同等またはそれより下の者に贈ることを意味していると思われます。張作霖ともなれば、身分は拓川翁の方が低いことは言うまでもないでしょう。後に吉田茂等が拓川翁のことを「大臣級」と称しているとしても、既に奉天省を支配していて、黒竜江省や吉林省さえも実効支配しつつあった当時の張作霖の方が、当然に身分が高いと言えます。
また写真の表装の左側には、「張作霖」と自ら署名するとともに、贈呈した旨を記す「贈」の文字とその下に押印がされています。
2人の会見時には、拓川翁は60歳程度であるのに対して、張作霖は45歳程度。おそらくこの写真は、会見当時の張作霖の写真ではなくて、過去に撮ったものを拓川翁に贈ったのではないでしょうか。張作霖については、私たちが学んだ教科書や資料集、その他の出版物に掲載された写真がいくつか見られますが、比較的若い同氏の鮮明で大きな写真は珍しいと思われます。
直筆の文字は、非常に流麗で暢びやかであり、自分の名前部分は力強くその威厳さえも感じられます。
張作霖は、馬賊で頭角を現した後に日本軍に拘束され、それ以降は日本軍に協力しつつ東三省地域から勢力を伸ばし、拓川翁と会見した頃からは破竹の勢いで中華民国のトップを自称するまでに至りますが、国民革命軍との戦いに敗れ、奉天に帰る途中に彼の乗る列車が関東軍に爆破されて死亡します。この張作霖列車爆殺事件の事後処理に関わったのが、拓川翁の中学の後輩である白川義則陸軍大臣であったのも、何か運命めいたものさえ感じます。
拓川翁は、このシベリア派遣の特命全権大使として、敦賀からハルピンを経由して、オムスク、イルクーツク、そしてハルピンを経由して奉天まで足を伸ばしています。張作霖に会うまでに、白軍総司令官で元黒海艦隊司令長官のアレクサンドル・コルチャーク(Alexander Kolchak; Александр Васильевич Колчак)、チタ民団代表、ザバイカルの統領であるグレゴリー・セミョーノフ(Grigory Mikhaylovich Semyonov, Григо́рий Миха́йлович Семёнов)、そして、ロシア移民の頭目であったドミトリー・ホルヴァート将軍(Dmitry Leonidovich Horvath; Дми́трий Леони́дович Хорва́т)と精力的に次々と会見しているのです。
さらに拓川翁が、これより2年前の1918年6月に段祺瑞とも会見している点は特筆すべきでしょう。奉天派の張作霖のみならず、安徽派の段祺瑞さらには孫文と黄興の4名と会見している日本人は、拓川翁の他にはそれほど居ないと思われます。世界史を学んだ日本人ならば誰もが知る張作霖。このような意味も含めて、この写真は、拓川翁が日本の歴史において極めて重要な役割を担っていたことを示す史料の1つといえます。
[今村暢好]