松山大学法学部教授 今村 暢好
松山大学は、2023年で創設100周年を迎え、同時に、本学園(当時は松山高等商業学校)の創設に尽力した人物の一人である加藤恒忠(号を拓川)は、没後100年を迎えました。
外交官として活躍し、衆議院議員、貴族院議員、シベリア特命全権大使を経て、松山市長となっていた拓川は、開学のために尽力しつつも、講義開始の1ヶ月前に逝去されました。拓川が、病魔に倒れ危篤となったとき、それを知ったかつての上司の元老・西園寺公望は、時の首相・加藤友三郎宛に次のような電報を送っています。
「貴族院議員加藤恒忠昨今松山ニ於テ危篤ノ由ニ付萬一ノ場合ニハ生前ノ功ニ鑑ミ叙位叙勲ニ對スル特別ノ御詮議頼ム」(大正12年3月18日付1)と。
拓川は、交際官試補として勤務したパリ公使館からベルギー公使館に出張した29歳の時に、新任の公使である西園寺と出逢い、それ以来、極めて親密な信頼関係を築いていたのです。貴族院議員になったのも、第2次西園寺内閣のときでした。拓川の日記には、西園寺と会食した記録が数十回あり、書簡も非常に多く残っています。
さらに、上記の電報の翌日には、内田康哉外相が加藤友三郎首相宛に対して、次のような文書を発しています。
「貴族院議員正四位勲一等加藤恒忠危篤敍位ノ儀別紙ノ通上奏致候間可然御取計相成度此段申進候也」(大正12年3月19日付2)。そして、内田外相は、「旭日大綬章」と「従三位」の推薦のために拓川の2通の履歴書を添付しています。そこでは、拓川の経歴が丁寧に記述されていて、「在巴里帝國講和会議全權委員事務所臨時嘱託全權委員顧問」として「全權委員ヲ補佐」したこと、「特命全權大使トシテ西比利亞ニ出張被仰付「オムスク」ニ赴キ首席外交官代表者」として使命を果たしたこと等を「功績多大」としています。
この西園寺公望や内田康哉らによる推挙によって、逝去した翌日に拓川に「勲一等旭日大綬章」が授賜されました。当時、爵位や大臣経験もない人物に勲一等旭日大綬章が贈られることは滅多にありません。加藤拓川が、いかに時の政治家たちに認められていたか、このことによっても分かるのです。
1 国立公文書館「貴族院議員正四位勲一等加藤恒忠危篤叙位並叙勲ニ関スル件」(昭46総00193100)
2 国立公文書館・前掲注「人機密合第一六八號 大正十二年三月十九日」