「監獄変じてホテルになる」

松山大学法学部教授 高嶋めぐみ

 国指定重要文化財「旧奈良監獄」が、令和8(2026)年春から星野リゾート傘下のホテルとして開業する。同監獄は、奈良・千葉・長崎・鹿児島・金沢と共に明治の五大監獄として知られている。国際標準化に沿った赤レンガ造の建物で、明治41(1908)年に完成、平成29(2017)年3月末まで旧奈良少年刑務所として使われていた。

 牢獄を法制史的にみると、戦国が終わり長く太平の世が続くと罪人に対する処遇もだんだんと緩和されてはいくが、江戸時代を通じて刑罰の中心は死刑と追放刑であった。明治になり刑罰の中心が自由刑就中なかんづく懲役刑となった。その執行場所が集治監―監獄―刑務所である。

 江戸時代は懲役刑や禁固刑が無かったため現在のような刑務所はそもそも存在せず、未決囚と執行待ちの既決囚を収監する牢獄のみがあった。現在の拘置所にあたる。最大の牢獄は江戸小伝馬町(現:東京都中央区)、約2700坪の敷地に高い土塀をめぐらし、その外側に堀を備えた。慶長以前から明治8(1875)年まで270年以上にわたって数多の囚人を収容してきた。八百屋お七、平賀源内、渡部崋山、安政の大獄では吉田松陰、橋本佐内など尊王派の志士も投獄、処刑されている。

 牢獄に入ることになった新参の囚人は、鍵役の役人によって身体検査のため丸裸にされ禁制品がないか調べられる。脱いだ衣類はもちろん、口・髪の中まで念入りに調べられ、もし見つかれば取上げられる。厳しい検査を潜り抜け、「ツル」と呼ばれる金銭をあの手この手を駆使し牢内に持ち込んだ。この「ツル」は牢役人に対するまいないである。新参者が手ぶらで入牢しようものなら、先に入っている牢名主以下に殺されかねなかった。

 牢内の環境は劣悪で殊に不衛生であった。窓は無く、風通しも悪く、日光も入らない。栄養状態は悪く、用便は牢内で済ませた。私刑も横行、獄死も多く刑事施設として未発達だったのである。

 明治の近代化・欧化の波は刑事施設にも及び、ここに監獄の近代化を迎える。こうしたなか、世に知られた網走監獄にも明治から大正にかけて建設された近代建築を見ることが出来る。

 監獄ではないが、ヨーロッパに行くと古城をホテルにしているところが多い。洋の東西を問わず歴史的建造物は趣があり、その佇まい・静けさ・周辺の美しい景観に溶け込んだホテルは人気を集めている。

 赤レンガの西洋建造物と緑滴る中庭を持つ旧奈良監獄がどのようなホテルに生まれ変わるか楽しみである。

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