松山大学法学部教授 銭 偉栄(セン ヨシハル)
奈良の名物といえば、「大仏」と「鹿」が挙げられます。
最近、ある女性政治家が演説で「奈良のシカを足で蹴り上げるとんでもない外国人観光客がいる」と発言したことがきっかけで、奈良の鹿がにわかに世間の注目を集めています。しかし、10月1日時点の信頼できるメディアの報道を見る限り、その発言の内容が事実であることは確認されていません。
奈良の鹿は、古来より神の使いとして神聖視され、これを殺めた者はたとえ過失であっても死刑にされていたと伝わっています。神鹿(しんろく)を殺傷した場合の刑罰について、三遊亭圓生は落語『鹿政談』の中で次のように語っています。
①「鹿を打つ者は五貫文(かんもん)の科料に処す」
②「鹿を過失によって打ち殺した者は死罪たるべし」
③「鹿を打ち殺した者は石子詰(いしこづめ)の刑に行なうべし」
落語の話だから当てにならないと言われそうですが、架空の話ではありません。上記②に関して、次のような実例があります。1551年(天文20年)、奈良の本子守町(ほんこもりちょう)で10歳ぐらいの少女がソラツブテを投げたところ、鹿に当たってしまいました。しかも、当たりどころが悪く、その鹿は死んでしまいました。少女は神鹿を殺したとして大人と同様に捕縛され、興福寺の塀の周囲を馬で引き回される「大垣回し」(当時の処刑手続き)の後、斬首刑に処されました。また、家族も連座して家屋を破壊されたうえで追放されたという記録が残っています。
江戸時代に入ってからも、しばらくの間は興福寺出身の者が奈良奉行を務めていました。1670年4月頃(寛文10年2月28日)、江戸から初めて派遣された溝口信勝が奈良奉行に着任しました。「悪法もまた法なり」とは言いますが、鹿を殺した者を死罪にするというのは酷すぎるでしょう(注)。溝口は幕府の方針に従い、これまでの極端な「神鹿保護」から、より広い範囲での「動物保護」を重んじる方向へと転換しました。
着任から8年後の1678年(延宝6年)に、その転換を象徴する出来事が起こりました。鹿を殺した犯人に対する処刑願いが興福寺から奉行所に提出されましたが、奈良奉行所はこれを拒否。それ以降、鹿の殺傷に関する裁判は、興福寺ではなく、奈良奉行所が取り仕切るようになります。
しかし、「たとえ過失でも鹿を死なせたら罰せられる」という風説はその後もしぶとく巷間に残っていたようです。奈良奉行を務めた川路聖謨(かわじ としあきら)は、在職中(1846年(弘化3年1月)~1851年(嘉永4年6月))の日誌に、そんな噂がいまだに流布しているのは困ったものだと嘆くような記述を残しています。
江戸時代の動物保護といえば、まず思い浮かぶのは第5代将軍・徳川綱吉が出した「生類憐みの令」でしょう。綱吉の治世(1680年(延宝8年)~1709年(宝永6年))中に次々と発令されたこの法令は、1682年に出された「犬を虐殺した者を死刑に処すべし」という触書きから始まったとされています。しかし、この「犬を大切にせよ」という触れが全国に広まっていた時代でも、奈良では「犬よりも鹿の方が大事だ」と考えられていたようです。圓生による『鹿政談』は、その考えを伝えています。奈良の人々にとって、鹿は特別な存在だったのでしょう。
それに比べると、現代の法律はかなり穏やかです。例えば、2021年に奈良の鹿をおので襲って殺した人物に対して、懲役10か月、保護観察付きの執行猶予3年の判決が言い渡されました。かつては「命をもって償え」とされた鹿殺しが今や「執行猶予付き」になるのですから、時代の移り変わりを実感せずにはいられません。
(注)「悪法もまた法なり」のルーツの1つとして、ローマ法時代のウルピアヌス(Ulpianus)の言葉「dura lex, sed lex」が挙げられています。この格言は本来、「それは厳しい法律であるが、しかし法律である」(柴田光蔵訳)と訳されるべきところ、いつの間にか「悪法もまた法なり」と訳されるようになり、今日に至っています。