松山大学法学部教授 高嶋 めぐみ
消防庁の資料によると、出火件数がもっとも多いのは3月。火災が多いイメージのある冬に次いで、4月、5月も発生しやすい季節だという。時代劇で有名な火付盗賊改方にしても、劇中では盗賊捜査中心だが、実際は火付対策に重点があった。火盗改は20組前後ある幕府御先手組から数組の兼任で、この火盗を兼ねる組数が年間一定ではなく、冬場になると増える。江戸幕府も火災を季節性のものと認識していたのである。幕府は放火犯に対し火あぶりの極刑をもって臨んだが鎮圧しきれなかった。そもそも日本建築の特徴として可燃性が強い。石造りなどと違って火災の被害は大きくなる。空襲の惨禍は民族の記憶に刻まれている。時を同じうして連合軍の大爆撃にさらされたドイツよりも我が国のほうが被害は大きかったのである。これは木と石の違いであろう。
時しも5月5日は端午の節句。「鯉の滝登り」にならって、男児に立身出世の願いを託して飾るようになり現在に受け継がれている。空高く泳ぐこの「鯉幟」が思わぬ事態を招き、歴史に残る大火となったこともある。時は大正10(1921)年5月1日、北海道苫小牧の中心部を焼き尽くす大火が発生した。開闢以来の災害となり、総戸数の3分の1を焼失、甚大な被害をもたらした。各家庭が掲げていた鯉幟を伝って火が広まったことから「鯉幟大火」と呼ばれている。大火後は、延焼の原因になったとされる鯉幟がしばらく掲げられなくなったという。
これが放火となると講学上公共危険罪といい、社会公共に重大な危険を及ぼすため重く罰せられる。我が国の火災発生原因中最も多いとされている放火によって人命や財産、文化財など喪失することもある。歴史を振り返れば、明暦3(1657)年1月18日午後2時ごろ出火、20日朝に至ってようやく鎮火した振袖火事として知られる明暦の大火。江戸時代最大の火災として知られ、江戸の大半を焼き払い、死者10万人を超えた。降っては昭和8(1933)年7月愛媛県の松山城、昭和25(1950)年7月金閣寺、昭和32(1957)年7月東京谷中の五重塔がいずれも放火によって失われた。
火事にも季節性がある。まだまだ火事が減少する季節ではないので、皆さまご用心!!