円滑な社会生活を送るには?

松山大学法学部長 明照 博章

一 円滑な社会生活を送るには?

 円滑な社会生活を送る上で必要となる「常識的な知識」というものがあります。「暗黙のルール」(「暗黙の了解」といってもよいのですが、これ)は、明文化されておりません。しかし、みんなが知っています(少なくとも、知っていることに「なって」います;おそらく、「推定される」ではなく、「みなされます」。「みなされる」とは、「法律上」、反証を許さないという意味です。「暗黙のルール」は、実際には「Aさんが知らない」としても、「(Aさんを含めて)みんなが知っている」ものとして適用/運用されます)

 ある程度生きていると、「暗黙のルール」を知らずにある行為を行ったため「恥をかいたり」、場合によっては「怒られたり」することがあります(「暗黙のルール」を知らないと、「常識がない」といって叱責されることがあります。それもしばしばです)。「結婚式や葬式の時には、誰もがそれぞれ決まった服装を着る」が「暗黙のルール」の例ですが、このルールを破り、「結婚式の時に、喪服を着てきた人」を想像してみて下さい。

 このような「暗黙のルール」は、「法律に決められていて、どこかに明文化されている」類の「ルール」では「ありません」。あくまでも、「その社会で生きている人が他人の気分を害さないように生きるためには、どうすればよいか」という観点から、徐々にできあがってきたルールです。だから、このルールを破っても、処罰されたりすることはありません。なぜならば、ある者に対して刑罰を科する場合、罪刑法定主義の適用を受けるからです。罪刑法定主義とは、「一定の行為を犯罪とし、これに刑罰を科するためには、その行為がなされる前に、犯罪と刑罰が法律によって規定されていなければならない」とする原則です。したがって、「暗黙のルール」に反したからといって、刑罰が科されることはないのです。「暗黙のルール」は、「法律ではない」からです。

 しかし、一旦ルールを破ると、「世間(日頃接触する人々で構成された共同体)に顔向けができなくなってしまう」ので、ルールを破るまでのような円滑に社会生活を送ることは当面できなくなります。そして、いつになれば、以前のような生活を送ることができるかも、わかりません。「世間における暗黙のルールを決めているのは、この『私』です」という責任者がいないからです。(刑罰の場合、受刑者がいつ出ることができるかは、「国」が決めます。そして、罪刑法定主義の定義からも明らかなように、「懲役や禁錮」の場合は、一定の時間が経てば、出所できます)

二 世間は必要か?

 では、人は、なぜ日頃接触する人々で構成された共同体(=世間)が必要なのでしょうか? 世間は、なんとなく得体が知れませんが、本当に必要なのでしょうか?

世間があると/世間の中で生きると、「一般的」には、「生きやすい」から、世間は必要だと思います。

 ◎ 世間の枠内で生きていれば、殆ど問題なく一生を終えることができる。

 世間と個人の関係が「◎」で示した通りであれば、敢えて、世間に逆らって生きる必要はないといえるでしょう。そして、さらに、世間が永続するのであれば、このような生き方に疑問を抱くことは、むしろ、無駄な思考ともいえるでしょう。

 では、世間が永続しない場合、「『永続する』と信じていた人」は、どうすればよいのでしょうか? あるいは、永続するとしても、「(今ある)世間の中では、生きにくいと感じた人」がいた場合、その人たちは、どうすればよいでしょうか?

三 世間で生きることの問題点

 おそらく、「結婚式の時に、喪服を着たい人」はあまりいないかもしれませんが、以前は、「暗黙のルール」によって決められてきた生き方(例えば、異性間の結婚)とは異なる生き方をしたい人(例えば、同性間の結婚)にとっては、「世間の中で生きていくこと」が難しくなるでしょう。

 また、世間の構成員ではなかった人々(例えば、外国からの移住者)にとっては、「暗黙のルール」が異なる文化圏から移住してきたことになるので、その地域に存在している「世間の中で生きていくこと」は難しいでしょう。

 さらに、世間を信じてそれを前提として世間の中で生きてきた人は、世間と異なる価値観をもつ人が増えてきた場合、生きにくさを感じるのではないかと思います。

四 世間とは?-その特徴とは?

 「世間で生きることの問題点」を考えるために、もう一度「世間がなぜ存在してきたのか」について、振り返っておこうと思います。

 前述した通り、世間があると/世間の中で生きると、「一般的」には、「生きやすい」から、世間が存在している(と信じている)と思います。しかし、世間の中で生きていくことが難しくなったのであれば、世間の存在理由がなくなってしまいます。それゆえ、世間で生きていた人は、世間を信じられなくなるかもしれません。

 世間は、「日頃接触する人々で構成された共同体」と考えられ、自然発生的にできあがります。言い換えると、世間は、「アスファルトの轍(わだち)」と同じように、徐々にできあがっていくのです。

 轍(わだち)とは、「車の通ったあとに残る車輪の跡」ですが、アスファルトに轍ができると、轍以外の動きが難しくなってくる時期がきます。しかし、大方の人は、轍通りに運転していることが多いので、特に気になりません。むしろ、轍に従って運転すれば、運転技術がそれほどなくても、「問題なく」運転できるという利点があるといえるかもしれません。ところが、轍以外の運転をしたい人にとっては、轍が障害となります。また、轍が深くなりすぎると、轍通り進みたい人にとっても、運転がしにくくなります(車体の低い車は、「車の腹」を擦ってしまうかもしれません)。多くの人が運転しにくくなると、アスファルトの張り替えが行われます(年度末の道路工事は、決して、年度内に予算消化の必要に迫られて行われているものではない(はず)です)

 ところが、世間は、アスファルトの轍(わだち)と同じではない部分があります。それは、世間がアスファルトの轍ほど「簡単には更新できない」ところです。

 世間も、アスファルトの轍(わだち)と同じような過程を経て更新されていくこと(つまり、アスファルトを掘り返して、新しく張り替えること)ができれば、問題はありません。しかし、世間は、アスファルトの轍ほどには簡単に更新することはできないのです。なぜならば、世間は、日頃接触する人々で構成された共同体ですが、これは、実体としては存在しておらず、世間の中で生活する人が想像的に作り出し、一定の機能をもつものと考えられるからです。「世間がある」と「信じた人」だけにとって、「世間はある」のです。

 「世間はある」として行動している人にとっては、すでにその世間が血肉化しているため(体の一部になっている/身体化されているため)、それがすでに時代遅れとなっていたとしても、更新することが難しい場合があります。これは、一旦身に着いた「癖(くせ)」は、なかなか直らないのと同じです。

 世間を更新することは、アスファルトを掘り返して新しく張り替えるほどには簡単ではありません。仮に、世間をアスファルトの張り替えのように更新すると、「革命」を起こすことになります。この革命の過程で多くの血が流れます。これは、20世紀の歴史が教えています。「革命」の名のもとに多くの血が流れた例は、枚挙に暇がありません(例えば、ロシア革命では、6600万人もの人が犠牲となったという試算もあります。正確にはわかりませんが)

五 社会が変化した場合の対応

 現在は、「文化的同質性を前提とする『書かれざる法』による社会統制(社会を安定化さえる効力)が弱くなってきている」事態が生じています。これは、先ほど示した「異性婚/同性婚に関する社会的認識の変化」に端的に表れています。

 この場合、①「革命ではなく改革を行って徐々に漸進していくこと」②「改革の方向は、『近代の理念』に従うこと」が必要であり、これが、現在進行中の変化ではないかと思います(少なくとも、日本では)。血の流れる革命を好む人は、(少なくとも、日本では)あまりいないのではないかと思います(これは、日本が1945(昭和20)年から戦争をしていないことに起因すると思います;「これが良かった/悪かった」に関する価値判断について、ここでは致しません)

 繰り返しになりますが、世間(に存在する伝統的な価値観)を一気に変革することは、その中で生きている人の数が多いだけに、避けるべきであると思います。しかし、「伝統的な価値観を墨守すること」もできません。世間の構成員が変化し、社会の在り方に変化が生じている場合、以前から存在した(と信じられてきたい)世間(に存在する伝統的な価値観)に対する信憑性が欠けてくるからです。

 以上を前提とすると、「世間(に存在する伝統的な価値観)のどこが問題であり、どのように変えていくべきか」について「議論を尽くし変革していく」ことが必要になるのだろうと思います(個人的見解としては、議会を通じた立法化という手法を使って社会変革を達成することになると思います)。その際に主導する理念は、現時点では「近代の理念」(例えば「自由/平等/博愛」)しか見当たりません。

この考え方は、非常に折衷的ですので、批判されるかもしれません。

 社会変革に関して、保守主義は、「人間は賢くない。頭で考えることはそれほど役に立たない。何を信じるかと言えば、トライ・アンド・エラーでやってきた経験しかない。長い間、人々が『まあこれでいいんじゃないか』と社会に習慣として定着してきたものしか、信ずることができない」と考えています。この視点を前提とすると、社会変革については、「今までやってきたことで不都合なところだけを直せばよい」ということになります。そして、「近代の理念は本当に正しいのか?」という疑念がわき、批判されると思います。

 一方、「理性の祭典」を行うような理念先行型の視点もあります。一定の正しいと思われる概念を考えだし、その概念に従って社会を変革するものです。これは、「人間の英知」に対する信頼が強く、理念に従った社会変革が進まない場合、革命的な社会変革を要求するようになります。

 現時点で、「目標のない日常の継続」に耐えられる人は、それほど多くないと思います。近代以降、人は、自律的で理性的な存在として方向づけられてきたからです。

 また、現実から遊離した理想を革命的に実現することに耐えられる人もあまりいないと思います。生物は、一定の状況に滞留しつつ次のステージへ進む態勢を整えるものだからです。

 結局、「近代の理念」を実現するために行われる作業は、あまりパッとしないものかもしれません。しかし、理想を目指し、現実を摑んだ上で、その現実を弁証法的に乗り越えていくことが近代以降の全ての人々に課された責務であると思います(ただし、これを「喜び」にまで高めることができるかどうかは、個人の資質によります。全員が「一律に」「喜び」にまで高めることを目的として、時の政府が強制力をもって指導すると、おそらく、大きな災難が降りかかると思います)

六 最後に

 結論は、特に目新しいことはなく、みんなが知っている話(これは、反証を許しますが)となりました。

 皆様には、小難しく長い文章を最後までお読み戴き、誠にありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。

 それでは、さようなら。

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