You are the Law ?

松山大学准教授 山川 秀道

(今日は)「あなた方が法です。法律書でも、…大理石の胸像でも、法廷でもありません。それらは、我々の願いの象徴に過ぎません…願いというより祈りと言うべきかもしれません。正義を切に願う祈りです。
…もし、正義を信じたいと願うなら、まず自分自身を信頼し、正しく行動するのです。」【『評決/The Verdict』(シドニー・ルメット監督、1982)】

 これは、映画の一場面のセリフで、主人公の弁護士が陪審員に向けて発したメッセージです。格好良いと思いませんか?日本では「裁判官、裁判員の皆さん、あなた方が法です」という表現はまず聞きません。そこには「法」に対する違った見方がありそうですが、ひとまず、その違いは棚に上げましょう。ここでは、「法の生命」を考えてみたいと思います。

 日本で「『法』を見つけましょう」と言うと、多くの人は、『六法』と呼ばれる法令集を捲るか、ネット検索を行うでしょう。すると、「難解な言葉の羅列(文書化された法)」が見つかると思います。でも、これって少し奇妙なことではないでしょうか?
 自然法則(例、万有引力の法則)は、外の自然の変化(林檎が木から落ちる様子)をじっと観察して発見されたものです。でも、法学の「法」は、人の行動の正・不正を判断するもののはず。それなのに、聖書やお経のような「文書の言葉」(自分の外)に答えを求めるのは、もしかしたら、そこに、何か神秘的な力、正義(?)が潜んでいるからでしょうか?
 しかし、事実として、法律は、ときに人を苦しめます。その最たる例はナチスの一連の法律でしょう。それらは、ユダヤ人であるということだけを理由に彼らを差別し、婚姻、職業、外出を制限し、果ては、老若男女のユダヤ人を虐殺する悲劇を招きました。
 この歴史的悲劇の大きな原因は「凡庸な悪(誰もが有する小さな悪)」にあるという指摘があります。反論もあります。が、人は誰しも、「組織の方針だから」、「法律・規則にそう書いてある」という理由で、自分の行動の正・不正を深く考えようとしない一面を持つのではないでしょうか?(少なくとも私は身に覚えが…。)そのような思考停止は、自分の中の正義を徐々に殺してしまい、「法」に対する「諦め・無関心」を生み出すのかもしれません。延いては、それが、「不正な法律」を生み悲劇を招くという考えも可能でしょう。裏返すと、次のような見解もあり得ます。手遅れになる前に、皆が「少しの理性と勇気(小銭の抵抗権)」を示せば、そのような悲劇は回避できると。

 諦め・無関心が、「法」から「その生命」を奪って「難しい言葉の羅列」に変えてしまう前に、どうか、皆さんも、「『正義』が自分たちの中にもあるのではないか」という希望をもって「法」を見つめて下さい。そのためにも、ぜひ、すべての「法学部教員からのお便り」を一通り読んでみてください。“You are the Law”の境地に一歩近づけると思います。

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