なぜ、『法学部』なのか?

松山大学法学部教授 妹尾克敏

「いまさら、なにを」という声が聞こえてきそうではあるが、国内外の「大学」という社会制度にはなにゆえ、数えきれないほどの「学部」が存在しているのであろうか?そして、私自身が、なぜ50年ほど昔に『法学部』を選んだのか。少しだけ説明することとします。

 なによりも、歴史上「大学」と呼ばれるものが誕生したのは、イタリアのボローニャという街だったと言われており、一説には、その創立は1088年であるといわれています。このボローニャ大学に、いまの用語でいう「学部」として置かれていたのは「神学部」のみでした。その後、大学という社会制度は、「文学部」と「理学部」の二系統に分化し、さらに、もう少し役に立つ「法学部」と「医学部」に再分化していき現在のような模様になったと言われております。ところが、我が国では、1878年にできた「帝国大学」がそのはじまりのようです。そして、この帝国大学の筆頭が「東京帝国大学」に他ならないわけです。したがって、現在の東京大学に至るまで日本における大学の先頭であり続けてきたということなのですが、それではなぜそうだったのでしょうか。つまり、日本における大学の歴史は、まだ150年ほどしかないということなのですが、東京帝国大学をはじめ複数の帝国大学が、当時の国(中央政府)の官僚(お役人)を養成するための国家機関であったことを忘れてはいけないでしょう。それまで260年以上にわたって存在し続けてきた徳川幕藩体制が終わり、「明治維新」という社会構造の一大変革運動の「一里塚」として、一日でも早く欧米列強諸国に「追いつき追い越せ」というスローガンの下でひとまず「外観」だけでも整えようとした結果、わずかな時間のうちに「国のしくみ」を整えておく必要があったわけです。明治初期には、「ザンギリ(散切り)頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という流行り歌(都都逸)が詠まれたり、「鹿鳴館」という欧風建築の館で連日連夜、ダンスパーティが開かれていたのがちょうどこの時代だったわけです。

 そして、いまや我が国においても大学と名のつく学校は、およそ700を超え800に近い数にまで増えています。また、2009年には、日本の高校生は、その50%を超えて大学に進学するようになった事実をどのように受け止めればよいのか、実は、途方に暮れるところとなっています。それというのも、私のような、とんでもない田舎で生まれ育った人間にとっては、ひとまず大学に行かなければまともな社会生活を送ることができず、なかでも明治維新以来の日本を引っ張っていったのは、法学部出身の官僚だったという意識を植えつけられてきた時代遅れの輩にしてみれば、世の中の役に立つ人材になるためにも大学の法学部は、どうしても見過ごすことのできない存在だったわけで、それ以外の学部はほぼ眼中になかったといっても差し支えないと思っていたのですから。そのうえ、小学校4年生の時から、「文科系ですねえ」という評価を担任の先生から下されていたところからも、およそ理科系学部には縁がなく、経済学部や経営学部、あるいは商学部や文学部ましてや外国語学部等は、初めから興味を持つことができない状態でしたので。もっとも、高校2年生の2学期が終わる頃までは、本気で日本文学(国文学)を勉強して、後世に読み継がれるような小説でも書きたいなという気持ちがあったことも否定するつもりはありません。これまでにも、よく、なぜ法学部を選んだんですか?と質問されることが少なくなかったのですが、そんな時には父親から「文学部じゃ飯が喰えんぞ」と言われたのでと、ごまかしてきました。ところが、よく考えてみると、大正8年生まれの田舎者で、地元の農林学校しか出ていなくて、しかも軍隊の経験をした父親にはそんな判断ができるわけもなく、やはり、消去法でもなんでもなく、当時の自分にとっては法学部が最も魅力的な学部として受け止められていたのです。おそらく、後天的に学習した成果として自分なりにそのような認識を持つに至ったのだろうと思います。

 その後天的に学習した成果というのは、明治維新以来の近代日本は、西欧近代の国家体制(国のしくみとはたらき)を《真似しながら》、四方を海と国境に隔てられた東洋の島国の「外面(そとづら)」を整えてきたことが明確に解り、その足跡を辿りながら、自分自身の人生を全うすることが「男子の本懐」ではないかと思うようになったような気がします。我ながら、時代錯誤も甚だしいと思えるほど大袈裟だとは思いますが、たぶん、その根底には、「明治維新の時に登場したような歴史に名を遺すような政治家になりたい」とでもいう大それた気持ちが横たわっていたのではないかと思われます。それというのも、父親が、敗戦の後、1年余り中国大陸に抑留されてから帰国し、昭和30(1955)年に、当時の日本全国の市町村の大規模な合併(「昭和の大合併」)で誕生した、人口わずか8,000人足らずの町の議会議員に立候補して5期、その後町長4期の数十年間、私自身には少なくとも大人のお手本と呼ぶべき存在を抜きには考えられなかったからでもあります。善悪はもとより、硬軟取り混ぜて一人のあるべき人として身近にいた父親と母親や祖父母を含めた家族の生活ぶりを見るにつけ、聞くにつけ、普通の民間企業のサラリーマンとして生涯を終えるなどということはもとより考えられなかったからでもあります。小学校の低学年だった頃、『文芸春秋』という雑誌が転がっていたり、挙句には『議員必携』等という本が無造作に置かれていたりした家庭環境は、大いに私の人格形成に影響を及ぼしていたということになるでしょう。

 そのような事情から、自分自身の将来は、理科系頭脳に恵まれず、代々の家業としての農業も、祖父の口癖で、戦後の農地改革で、「普通の百姓になってしまった」という慨嘆を数えきれないほど聞きながら育った人間の進むべき途としては、過ぎ去った過去に郷愁を覚えるのではなく、これからの人生を社会の変革や改造に関われるものにしてみたいという不遜で不相応な望みを抱くようになっていったわけです。

 ところが、そうした「志」が、スムーズに果たせるわけではなく、田舎の高校を卒業して、当時としては主要な私立大学の年間授業料よりも明らかに高額な授業料を取る在京の予備校に入り、「浪人」として年間6回に及ぶ『全国模試』でその都度自分の位置づけを確かめながら、ようやく、法学部政治学科に合格し、念願の大学生としての生活を始めることができたわけですが、1年間の予備校生としての生活費は、父親によると、100万円をわずか数千円だけ下回るようなお金がかかったということを宣告され、かなり衝撃であった。50年前に通告されたこの事実は、今もって私自身の心の疵(きず)となり、生きる縁(よすが)となり続けているものです。

 ところが、晴れて法学部の学生となりながら、政治家になりたいという高い志と淡い憧憬からはいよいよ遠ざかり、「普通に就職して、サラリーマンとしては働きたくない」という邪悪な考え方に支配されるようになり、それから逃れる途は、当時の私には「大学院」に「入院」することでしかないと考えるようになり、4年生の時の大学院入試には見事に失敗し、またしても1年間、自ら意欲して4単位の選択必修科目を故意に「不受験」して「留年」しました。その結果、日がな一日、大学図書館で文字通りの受験勉強をし、その甲斐あって実質競争倍率が10倍超の大学院法学研究科に合格することができたのです(たしか、当時の法学研究科政治学専攻の1次試験通過者は15名だったような気がしますが、最終合格者は3名だったと思います)。今となってはそのおかげをもって、曲がりなりにも現在の大学教員という職に就くことができたのだと思っております。

 以上が、自己反省を込めた冗長な自己紹介であって、なぜ、私が法学部に進んだのかのささやかな理由でもあるわけです。明治維新当時の元勲のように、「高い志を持ちながら暮らしを低く保ったまま刻苦勉励する」つもりで、過ごすべきところをお読みいただいたような超いい加減な半生を送ってきてしまいましたが、これから大学に進もうと考えている人たちにとって、ひとつの反面教師的な道標(みちしるべ)にでもしていただければ幸いです。

以上

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