立つ鳥跡を濁さず…

松山大学法学部教授 妹尾 克敏

 今年度末を以って、34年間に及んだ松山大学法学部を退職させていただきます。
想い起せば、一家5人で瀬戸大橋を渡ってきましたが、6箇月後の、来年3月末には、3人で故郷の岡山県に帰ることになりそうです。

 そこで、長いとも短いともいえる30余年間で、後天的に身についたわずかばかりの「知恵」をお伝えしておこうと思います。ただ、なにしろ地方自治法なり憲法なりの、担当分野の話しというわけではなく、数々の失敗から何某かを学んだ世間知やそれにまつわることが中心となりますが…

 今は昔、赴任2年目の1991(平成3)年には、労働組合法の適用を受けない「教職員会」なる事実上の労働組合の「書記長」を仰せつかり、給与をはじめとする処遇改善等の団体交渉組織の一員として、学校法人側と幾度か折衝することを経験させていただきました。当時は、未だ薬学部は存在していませんでしたが、教育職員も事務職員も、基本的には国家公務員の給料表を準用する給与体系であったため、毎夏の「人事院勧告」に一喜一憂しながら最大多数の最大幸福を目指して、それなりに頑張っていたはずです。そのうえに、人生の大先輩に当たる理事長や担当理事等を相手に、何度も随分と生意気な口を聞いたもので、今更ながら大いに反省しております。但し、後悔はしておりません。その時点では、教職員労働者の代弁をしたつもりでしたので…

 また、これも今は昔、36歳という中途半端な年齢で法学部開設スタッフの一人としてバブルがはじけた直後に松山に転居し、忘れもしない1990(平成2)年4月1日の日曜日に、「臨時法学部教授会」のために事前打ち合わせという顔見世に参加し、翌日の教授会で投票によって、法学部選出の図書館運営委員に選出されました。たしか13票の得票ではなかったかと記憶しております。その後の法学部教授会でも、教授会構成員の先生方に半可通の知識を持ち出し、「戦略的には敵を軽視、戦術的には敵を重視せよ」という、あの毛沢東語録まで引用しながら松山大学の新参学部たる法学部でも最も新参者の立場を顧みず、学部間競争を避けないことにつき、まるで演説かのように発言したこともあり、まさしく汗顔の至りでした。穴があったら、入りたいほどでした…

 さらに、学生間では、なぜか「強面(こわもて)」として変に避けられながらも、なぜか一貫してその姿勢を崩さないままでした。今では身体障害者4級のおじいさんなのに…

 如上のことは、すべて私自身の不徳の致すところで、何ら弁解も弁明もできませんが、せめて、退職に際しては、多少は成長したところを認めて頂き、晩節を汚すことなく「立つ鳥跡を濁さず」という状態で、お暇したいものです。

以上

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