私の就職騒動記

松山大学法学部教授 村田毅之

 大学を卒業して大学院に進学するまでの1980(昭和55)年4月から2年間は、公務員でした。川崎市役所と東京都の試験に合格し、東京都の職員(小学校事務)になりましたが、その際、ドラマチックな展開がありました。

 青森県出身の私は、4年間の都会生活では物足りず、都会の公務員を希望しました。当時の大学卒向けの試験は、重複合格阻止のため、1都3県、7月中旬の同じ日に行われました。第一志望の東京都は、美濃部亮吉前知事時代の財政赤字が続き募集がなく、第一志望を横浜市に変え、ついでで川崎市にも願書を出しました。

 ところが、住んでいた杉並区阿佐ヶ谷から横浜市の試験会場(関東学院大学:横浜市金沢区)が遠かったので、川崎市を受験しました。川崎市の試験は、専門・教養等の一次試験で120名になり、面接の二次試験で60名が最終合格というものでしたが、スーツがなく学生服(高校時代着用)で面接に臨んだのがウケたのか、地元でもないのに運よく最終合格しました。その後、東京都も、リストラのための早期退職の募集が功を奏したことから、異例な形で11月に試験を行うことになり、これも受け合格はしましたが、川崎市が受かっていたことで緊張感に乏しく、低成績での合格でした。

 公務員の採用は、試験の合格により採用候補者名簿に登載され、基本的には、成績を勘案しつつ、必要に応じて実際に採用を決定するという仕組みです。合格しても、実際の採用に至らないことが普通にあります。地元でもないせいか期待の川崎市からは卒業する年の2月になっても何の連絡もなく、また、東京都は期待薄だったので、卒業後の食い扶持を確保すべく、急遽、東京・丸の内にある弁護士事務所の事務職員募集の面接を受け、幸運にも内定をもらいました。

 すると、その直後、川崎市から採用するとの連絡がきました。それまでの「無しの礫」に憤っていたことと、弁護士事務所の職を確保していたこともあり、安易に断ってしまいました。このことを、内定先の弁護士事務所の先輩に話したところ、「なんてもったいない」と叱られました。軽率な判断だったと落ち込んでいたところ、卒業式を2週間後に控えた3月のある日、東京都から千代田区立永田町小学校で採用するとの連絡がきて、なんとか1980年4月1日に社会人としてのスタートをすることができました。

 履歴書には書けませんが、私の就職にも、こんなドタバタがありました。

« »