加藤拓川と秋山好古

松山大学法学部教授 今村 暢好

 松山大学(松山高等商業学校)の創設に寄与した人物の一人である加藤恒忠(号・拓川)は外交官を終えた後、松山市長として本学園設立の旗振り役となりましたが、開学を迎える一月前にこの世を去りました。松山高等商業学校の初代校長には、北豫中学校長であった加藤彰廉先生が就任されました。その北豫中学校長を引き継いだのが、日本騎兵の父「秋山好古」です。司馬遼太郎先生作『坂の上の雲』(文春文庫)の主人公の一人です。

 加藤拓川と秋山好古は、明教館の同級生であり、ともに同時期にフランスに滞在していたこともあって、まさに大親友の関係でした。拓川の日記においても、数え切れないほどの好古との面会記録が残っております。
 秋山好古は、北豫中学校長の第廿六囘學校記念式訓示において、次のように拓川について語っています(『秋山好古大將傅記』(秋山好古大將傅記刊行會・1936年・614頁))。
「…加藤彰廉校長の時に募集し得たる十三萬圓の基本金は、加藤恒忠氏の力多きに居る。」
「是より同氏の事を少しくお話すべし。
 加藤恒忠氏幼にして神童、學に長じ、負けぬ氣強し。」
「松山藩の維新以來の恥辱を晴らす爲には、士を洋行せしむるを要すとの與論があり、加藤恒忠氏も久松伯のお伴をして洋行せり。伯は中學へ入り後ち士官學校に入る。加藤氏は法科大學を卒へ、佛國にて我公使館附となり、豪膽にも獨力で伯の御世話せり。氏の助力により伯は御出世なされたり。
 加藤恒忠氏が一年間松山市長たりし時代に、攝政宮殿下松山へ行啓の時、御宿所に充つべき建物なし、久松伯其時粗末なる御別邸を新築せんとの御内意あり。加藤氏は伯にすヽめて數十萬圓を以て建物庭園共に立派にして頂き、之を拜借して殿下の御宿所にあて、殿下は見晴らし好く、大に心持よし、と仰せられ、御下賜品もあり、市も伯も面目を施せり。加藤氏は伯へ御取なしヽて、大蔵省より松山城山を五萬圓で拂下けて貰ひ、之を其儘市へ寄附し、別に保存費四萬圓も市へ寄附せり。
 松山髙商は意外に多額の經費を要して當初經營困難の事ありしが、加藤氏は新田長次郎氏に勸め、又其時の齟齬をなだめ、新田氏より五十萬圓を出して貰つて難關を突破するを得たり。」
「年六十五歳、勳一等旭日大綬章に祭祀料を宮中より賜はる。余も時々會合などの歸路に墓參す。加藤氏は佛國前首相クレマンソー、ホアンカレーと親交あり、西園寺公、原、犬養氏等とも親交あり、先日犬養氏松山に來れる際加藤氏の墓參せり。」
 このように、拓川の一生を好古は纏めているのです。

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