無自覚を自覚する―自動車運転免許のはなし-

松山大学法学部教授 倉澤生雄

 今でも、「時間のある大学生のうちに自動車の運転免許は取っておいたほうがいいよ」と言われたりするのでしょうか。読者の皆さんは、自動車の運転免許について、次のように考えていませんか。自動車の運転免許を取得した者は、公道上自動車を運転できるようになる。反対に、自動車の運転免許を取得していない者が公道上自動車を運転すると、道路交通法違反で警察に捕まってしまう。つまり、免許という一定の資格を取得した者は、その成果として一定の行為をすることができるようになるのだと。

 行政法の世界では、自動車の運転免許のような仕組みを指して「許可」と呼んでいます。許可とは、国民に対して一般的に禁止していることを、特定の場合に解除する行為と説明されています。行政法の観点から自動車の運転免許をみると、国民に対して、自動車を運転することを一般的に禁止しておき、免許を受けた者について、この禁止を解除するということになります。免許という資格を得て自動車を運転するのではなく、禁止が解除されるために自動車を運転できるようになると理解するのです。このような説明の仕方に、何となく違和感を覚えるでしょうか。少し、法律学的に考えてみたいと思います。

 自動車を所有すること、自動車を操作して運転することは、憲法29条が保障している財産権の問題です。個人は、自身の財産として自動車を保有すること、その財産を活用して利益を得ること、不要になった時にはその財産を処分することができます。でも、自動車の使用について、全て個人の自由に任せてしまったら、交通ルールをよく知らないドライバーまたは自動車の操作方法が身に付いていないドライバーが道路に繰り出してしまいます。こんな道路、怖くて通りたくないでしょ。そこで、政策として、道路交通法を通じて、一旦は全ての者に自動車の運転を禁止しているのです。自動車の操作を適切に行える者、そして道路交通法の知識が十分にあると認められる者に対してのみ、自動車の運転免許証を交付して、公道上、適法に自動車を運転できるという仕組みにしているのです。

 人は生まれながらに基本的人権を享有していると言われますが、いざ、それを行使しようとすると、思わぬ形で制限されているものなのです。制度によって人権行使が制限されている例を、読者の皆さんは他にも気づくことができるでしょうか。

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