松山大学法学部准教授 牧本公明
私の学生時代の師が、大学を卒業する私達に送ってくれた言葉に「ユートピアン(夢想家)であり続ける」というものがある。「夢想家」という言葉は、師によるとフランスの思想家ルソーの晩年の著書である『孤独な散歩者の夢想』に由来するとのことだが、ユートピアは、ギリシア語の否定語であり、「無い」という意味の“ou”(ユー、英語の“no”)と「場所」を意味する“topos”(トポス、英語の“place”)に由来する合成語であり、「どこにも無い場所」としての「理想郷」を意味し、そのような「理想郷」を追い求める者がユートピアンとされる。ユートピアンと憲法。両者の関係を理解するためには、もう少し説明が必要だろう。
そもそも社会に多様な「個」が存在すれば、その多様性ゆえ当然に「個」と「個」の間には摩擦・衝突が生ずる。それでも多様な「個」が平和に共生できる社会とはどのような社会か。この「問い」に対し日本国憲法を含む近代憲法は、個人の尊重と基本的人権の尊重という理念を「解」として示す。この理念は、それぞれこの世に唯一の存在である「個」が、自分自身の「幸福」を「自由」に追求することを認める。ただ、これは放任しておくと「わがまま勝手」になってしまいかねない。しかし、他者も自分と同様に唯一の存在であり、その「幸福」を追求する存在であることを理解すること、つまり自分と他者の価値は、本来「平等」であることを理解しうる理性を持つことで、利己性は抑えることができる。このような近代憲法の理念に基づけば、「個」の「自由と平等」が基本に置かれた、理性的な「個」の集合体としての社会が秩序正しく形成されるはずだ。憲法学者は基本的にこのような考え方を共通して持っている。
しかし、全ての人間が等しく理性を持っているわけでもなく、論理的には成り立ちうる理想的な社会も現実には存在しない。その意味では、近代憲法の掲げる理念はフィクション(虚構)であり、またそれに基づく社会はユートピアということになる。それでは憲法がそのようなユートピアを理想に掲げることに意味は無いのか。師は(当然私も)、決してそのようには考えない。「全ての個人にとっての幸福が現実社会でも追求されるべきだし、そのことは実現可能だ」と説く者の言葉を非現実的な世迷い言として退けたくはない。ユートピアンとして近代憲法の理念の伝播・伝道に努め、社会をユートピアに少しでも近づけたいと考えている。
私にとって師の「ユートピアン(夢想家)であり続ける」という言葉は、憲法の研究者として、そして憲法の教員としての大切な「道標」となっている。皆さんが、法学部で人生をかけて追求するに値する「理想」や人生の道標となるような大切な「言葉」と出会えることを願ってやまない。