やりたいことが見つからない?(その2)*

松山大学法学部講師 安藤 津

 やりたいことが「見つかった人」と「見つからない人」って、何が違うのでしょうね?異なる結果や現象があるならば、そこには必ず異なる要因がある、と考えるのが科学です。要因は様々あるでしょうが、その入り口あたりのいくつかを、ちょっとだけ一緒に考えてみましょう。

 まず最初に、「面白そうだからやってみたい」という純粋な心は、自然なmotivationになりそうです。誰かに無理やり「やらされる」のと、自分で「やってみたい」と思うのとでは、おそらく後者の方が抵抗は少ないでしょう。色んなことを「やってみたい」と感じる機会が多い人は、きっと「好奇心」が旺盛な人、と考えることが出来そうです。色んなことをやってみているうちに、自然と「面白いからやり続けていること」が絞られてくるとすれば、「好奇心」はとても重要なことと言えそうです。もっとも、「やりたいこと」が見つかって、それだけにのめり込んで集中したら、他のことにはなかなか目が向かなくなり、そういう意味での好奇心は、あまり旺盛ではなくなる、という現象も起きるかもしれませんね。

 次に当たり前ですが、「やりたいことが見つかった人」は、何かをきっかけに「それをやってみた人」であることは確かですよね。「面白そうだからやってみたい→実際にやってみる」というプロセスが、必ずあるはずです。つまり「行動力」も大事なこと、と言えそうです。
 
 この「好奇心」と「行動力」ですが、特に何か事情がなければ、基本的に人間は子供の頃、誰でも好奇心旺盛な時期があるものです。色んなことを「面白そう」と思って全部やっていれば、自ずと「やりたいこと」は見つかる、という法則を仮定してみましょう。もしこれが正しいとすれば、やりたいことがたくさんあって忙しい人は、好奇心旺盛で、「面白そう」と思ったことを片っ端からやってきた人、ということになりそうです。逆にやりたいことが全くなくて、好奇心が全くない人は、「面白そう」と思ったことをやってこなかった人、ということにもなりそうです。

 これらは言い換えると、前者は「面白そう」と思ったことを、片っ端からやらせてもらえた人、やらせてもらえる環境にあった人、と考えることも出来そうです。逆に後者は、せっかく「面白そう」と思ったことを、全然やらせてもらえなかった人、やらせてもらえない環境にあった人、ということにもなりそうです。前者はluckyですが、後者はunluckyですよね・・・。

 さて、もしそうだとすると、これらは全て本人の責任である、と言えるのでしょうか?luckyな子供のgood luckは、必ずしも本人の努力で得たものばかりではないでしょう。例えば、「裕福な家に生まれる」というのは、生まれる前の本人の努力でどうにかなるものではありませんよね。「あれやりたい、これやりたい。」という希望を、「どんどん叶えて応援してもらえる環境に生まれる」というのも同じでしょう。こういう環境に生まれれば、好奇心旺盛で行動力のある人になりやすい、と考えることが出来ます。

 逆にいくら好奇心旺盛な子供でも、「あれやりたい、これやりたい。」と言うたびに、いつも大人から「(今は)ダメ」と言われ続けてきたらどうでしょう?その内に、「あれやりたい、これやりたい。」と言う気さえ失せてしまっても、無理のないことです。そのまま大きくなって大人になったら、好奇心や行動力のない人になってしまっても、まあ自然なことなのではないでしょうか。

 このように考えると、やりたいことが「ある人」も「ない人」も、全てが本人の努力や希望や自己責任の結果である、と言うのはちょっと難しそうです。ましてや、やりたいことが「ある人」は偉くて、「ない人」は偉くない、などとは到底言えそうもありません。やりたいことが「ある人」は、全てが本人のお手柄というわけでもなく、「ない人」は、全てが本人の責任というわけでもない、ということになります。本人のせいでないのなら、もちろん誰かに責められるべきことではありませんよね。

 だったら余計なことは気にせずに、これからのことだけを考えてみましょう。「やりたいことが見つかる法則」を「正しい」と仮定して、まずは単純に、「面白そうだからやってみたい」という純粋な心に素直に従ってみましょう。ちょっとでも「面白そうだな」と思ったら、片っ端から全部やってみましょう。大学は、そういうチャレンジにピッタリの場所ですよ!
 
 あ、もちろん法律の範囲内でお願いしますね。

 *前回の「やりたいことが見つからない?」は、2022年6月6日に掲載されています。

« »