一筋縄ではいかない「平等」という概念

松山大学法学部教授 井上一洋

 本年度4月より松山大学に着任しました。松山大学に着任するまでは、宮崎県の大学で憲法を教えていました。私は大分県出身ですが、学校の同級生に愛媛県の出身者がいたり、テレビのアンテナを少々伸ばせば愛媛県のテレビ番組を受信できたりと瀬戸内海を隔てて向かい合っている愛媛県は子どもの頃から身近な県の一つでした。

 さて、はじめて「教員からのお便り」に執筆させていただきますが、今回は、私の研究テーマの一つである「平等」についてお話ししたいと思います。みなさんは、「平等」という言葉を聞いた時、何をイメージされるでしょうか。個人の権利としての「平等」という概念は、近代になって登場したといわれます。しかし、古代において「平等」という概念がなかったというわけではなく、プラトンやアリストテレスは、正義に関する重要なテーマとして「平等」について論じていました。たとえば、アリストテレスによる古典的な平等概念は、「等しきものは等しく扱うべし」という定式としてよく知られています。

 ところで、この「等しきものは等しく扱うべし」という定式に基づき、人々を平等に取り扱うことはできるでしょうか。たとえば、積載量の多い排気量2000ccの自動車Aと積載量の少ない同じ排気量の自動車Bがあったとします。これら2台の自動車の所有者から排気量を基準に自動車税を徴収する場合、自動車Bの所有者から自動車Aに対する自動車税と同じ額の税金を徴収するのは平等であるといえます。しかし、排気量を基準にしているにもかかわらず、車の積載量に着目し、自動車Aの所有者に対して高い税金、自動車Bの所有者に対して安い税金を課した場合、それは不平等な取り扱いとなり、自動車Aの所有者からは不満が出るでしょう。一方で、排気量ではなく自動車の積載量を基準に自動車税を徴収する場合、自動車Aと自動車Bの所有者に対して、それぞれ異なる額の税金を課してもそれは不平等な取り扱いとはいえないでしょう。このように、現実の社会では、異なって見えるものを等しく取り扱ったり、あるいは等しく見えるものを異なって取り扱ったりする方が適切とされる場合があるのです。したがって、「等しきものは等しく扱うべし」という定式は、「平等」について判断する際の基準を私たちに与えるものではないといえるのです。しかし、そうすると今度は平等な取り扱いを考える際、私たちは何を基準に判断を下しているのだろうかという問いが生まれます。このような問いに対しては、平等か不平等かの判断をする際、私たちは「等しきものは等しく扱うべし」という定式ではなく、その外にある何らかの価値基準に基づき、判断を下しているという回答ができるかもしれません。

 よく耳にする「平等」という概念は、実はなかなか一筋縄ではいかない概念なのです。

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