松山大学法学部教授 遠藤 真治
年の瀬も迫り、各地で新年を迎える準備が慌ただしさを増す、そんな時節がやって来た。毎年恒例のNHK大河ドラマもようやく終焉を迎え、総集編を再視聴する人もいることだろう。
今回の『光る君へ』の印象を端的に表するとすれば、従来の路線とは一線を画す意欲的な試みが見られたと感じる。まずは、これまで数多くドラマ化された大衆受けする「戦国時代」や「幕末」の英雄譚ではなく、平安時代という希少な時代に挑戦したこと。今一つは、(脚本家の某氏も同様の趣旨のことを語っておられたが)、「源氏物語」という極めてポピュラーな作品の作者でありながら、いまだその全体像に不明な点の多い“紫式部”という人物を主人公に取り上げたことである。そうした点を評して、マスコミやネット上では「画期的」とか「冒険的取組(趣意)」などの論評が比較的多く見受けられた。絵巻物に興味を持つ者としては、「石山寺縁起絵巻」に描かれた式部をどのような脈絡で石山寺と絡ませていくのか、期待が膨らんだように思う。
だが一方で、ドラマ性を意識するあまり、随所に虚実織り交ぜた式部像や周辺の人物の描き方に違和感を覚えたり、戸惑いを感じる作品であったと言わざるを得ない。例えば、初期の段階で最も気になった箇所を挙げるとすれば(確かドラマが始まってまもない回だったかと思うが)、式部の母が藤原道長の兄に殺害されるシーンなどは、その代表例であろう。もとより、式部の母は「彼女が幼いころ既に他界していた」との認識は、多くの研究者の一致するところではある。だが、式部と藤原道長との(恋愛ドラマとしての)関係性を膨らませる意図からだろうか、式部の母の死を極めて恣意的に表現する手法には、残念ながら「ちょっと待って」との疑念を抱かざるを得なかった。他にも(作り手の苦労を棚に上げて申し訳ないが)、式部と道長の逢瀬に固執するあまり、かなり無理な設定を行わざるを得なかった場面が数多く垣間見えた。
昨今はマスコミやネットによるイメージが視聴者の固定概念を形成し、それがあたかも真実のように流布して、人々の人物像や歴史観を作り上げて(捻じ曲げて)しまうという現象が社会に蔓延しつつある。特にNHKという公共放送の影響力を考えると、百歩譲って「ドラマ」との名を冠しているとはいえ、ここは看過できない問題点をはらんでいる。早くも、この場面を受けて「式部の母は道長の兄弟に殺害された」と、あたかも史実かのようにとらえる人が、私の周囲にいたことを申し添えておきたい。やや踏み込んだ申し上げ方をお許しいただけるならば、視聴率やドラマ性を重視するあまり、視聴者の嗜好におもねる傾向がこうした方向性を強く生み出しているのではないかと推察せざるを得ない。ともあれ、昨今は世を挙げて「インスタ映え」を目指し「いいね!」を競う時代である。そんな世情をよそに、あえて視聴率呪縛から少し距離を置いて頂き、できれば「肝の据わった」骨太の番組を期待したいところである。
少々ねじり鉢巻きを締め直して記した、たわいもない「老いぼれのつぶやき」をご寛恕願いたい。
《主な参考文献》
・「評伝 紫式部」(増田繁夫 和泉書院) ・「紫式部の実像」(伊井春樹 朝日新聞出版)
・日本の絵巻16「石山寺縁起」(中央公論社) など